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【No.006】

44 Produce Unit の2002年

44北川 はじめまして、44北川です。数字の44と書いて「よし」と読みます。ですので、団体名も「よし プロデュース ユニット」と読みます。わかりづらくてすいません。以後、お見知りおきを。

簡単に自己紹介をば。

44北川は・・・高校時代2年間を米国で過ごし、エセ帰国子女になりすまして国立和歌山大学に入学、大学4年間を体育会系アメフト部にて元気良く過ごし、大学3年生の秋には就職先も先輩のコネを使って某大手損保会社TK、某M自動車などの一部上場企業に内々定をもらっており、順風満帆な人生を送っておりました。

が、4年生の時、アメフトの練習中に両眼網膜剥離という怪我に直面、二ヶ月の入院生活の末、辛くも「失明」という最悪の事態からは回避、生きる目的を見失いそうになっていた時期に関西小劇場と出会いました。

たまたま知人のお兄さんが劇団MOPの小市慢太朗さんで、彼が出演している舞台(リリパットアーミー『桃天紅』)を観たのが運の尽き?! それからは関西小劇場にはまってしまい、和歌山から定期券を買って大阪まで観劇のために通うほど演劇に熱中。

決まりかけていた就職先も同期にゆずり、たまたま目にはいった加藤健一事務所の養成所のオーディションに受かって上京、俳優になるべく道を選んで現在に至る、、、

と、まぁ、こんな感じの男が主宰の集団が44 Produce Unit です。

2003年1月現在までに9作品を上演、1作品目から6作品目までは小野真一氏、じんのひろあき氏の作品を中心に上演、それから3年間44北川本人の武者修行のためのブランクがあり(惑星ピスタチオ客演、今井雅之氏『The Winds of God』ワールドツアー参加etc)役者としてレベルアップを図った後、

2001年12月、『努力しないで出世する方法2001』(vol. 7)
(作 じんのひろあき / 演出 さわまさし・44北川)
2002年1月、『努力しないで出世する方法2002』(vol. 8)、
(作 中島淳彦 / 演出 さわまさし)
同9月、『INDY 〜I 'm not dead yet〜(命の長さを決める遺伝子)』(vol. 9)
(作・演出 藤井清美)

を上演、現在に至っております。

2002年は「夢の達成」を実感できた年でもありました。加藤健一事務所出身の自分としては、「いつかは本多で」という思いがずっと胸の中にあり(もちろん、「劇場」を目標にして演劇をやっているわけではないのですが)、2002年はその「本多の舞台に 立つ」という夢が実現した年でした。

なんせ、加藤健一師匠の楽屋に10分前、5分前コールをしに行ってたり、本多のロビーで物販やモギリ、場内整備のお手伝いをしていた立場でしたからねぇ。どうしてもそんな自分を励ますためにも「いつかは本多の舞台に!」という想いが強くなってしまうんでしょうね・・・(苦笑)

2001年12月18日(火)から25日(火)まで中野 劇場MOMO、その三週間後の2002年1月16日(水)から20日(日)まで下北沢・本多劇場、

「空間の全く違う劇場での連続公演」

15人の役者が舞台の広さも客席数も全く異なる空間で、全く違うストーリーの中でいかに暴れるか?!

をコンセプトに無謀とも言われる2作連続公演を、両公演合わせての動員2730人という結果にまで持って行き、本多劇場での公演に幕を下ろすことができました。(千秋楽公演は500人近くのお客様が入場、階段通路、立見席、調光室にまでお客様が溢れ、開演時間が45分も遅れる、という失態を露呈させてしまいましたが・・・)

2002年6月は下北沢 ザ・スズナリでの公演。青年座演出部の藤井清美女史の作・演出による書下ろし作品を上演。ワールドカップとちょうど重なっていた時期でしたが、終演後には観に来ていただいたお客様とa亭のTVでサッカー観戦と洒落込んだものでした。楽しかったなぁ・・・

さて、そんなこんなで、44 Produce Unit の2002年はこうしてかなり充実した一年でした。一年に2作上演。この数が多いのか少ないのかはわかりませんが、とにかく楽しい舞台生活でした。

あ、ちょっと残念だったのは、ちょうどスズナリでの公演とワールドカップの球技場にあるVIPルームのディレクターのお仕事がバッティングしてしまってワールドカップのお仕事ができなかったこと、かなぁ。一生に一回だけですからね、日本でワールドカップが開催されるのは。ってことは、そのディレクターの仕事ももう二度と来ないわけでして・・・ちょっと迷ってしまった自分がおりましたとさ。

44北川、役者だけでは食えないので、最近は展示会やらのディレクターで生計をたてているのです。

『東京モーターショウ』(HONDA)、『東京ゲームショウ』(SEGA)、『NEC i - EXPO 2002』(NEC)、『国際物流総合展2002』(小松リフト)、『JUMP FESTA 2003』(集英社)、『TOKYO AUTO SALON 2003』(HONDA)、『3 Dealers Conference 2003』(VOLVO、JAGUAR、LAND ROVER)

等など、就職しなかった自分が今では立派な企業のシモベとなってバイト君達100人を動かしたりしてるんっすよねぇ。なんか不思議・・・

2003年4月、今年は本多の次の夢でもあった「紀伊國屋」での公演が控えております。初日は偶然4月4日(金)、「44」の日。いや、本当に偶然なんですけどね、まじで。作は本多でもお願いした劇団 道学先生の中島淳彦氏、演出は同じくさわまさし氏。全く無名の集団でも紀伊國屋の舞台に立てるんだ! というコンプレックスの塊のような自分が意地でこじ開けた紀伊國屋の舞台の門。。。

44北川(2) 総制作費700万を何とか工面しようと現在馬車馬のように働く44北川です。まったく後援、協賛、提携のない公演ですからねぇ。ま、それが夢だったわけなんですけど。「超無名集団のまま、紀伊國屋の舞台に!」(苦笑)

『The Winds of God』のロンドン公演で今井雅之氏の相手役・キンタをやらせていただき、海外で「太平洋戦争」という題材を扱った舞台に携わり、今後の自分の演劇活動においても切り離せない問題、この「戦争」というものにもう少し取り組んでみたい、という心境の変化が訪れたので、今後3年間、中島淳彦氏にお願いして、「中島淳彦・戦中戦後三部作」と銘打って、一年に一回、中島作品を44プロデュースで上演していきたいなぁ、と。

それがこれからの44 Produce Unit の展開予定です。ですから公演回数は減るのですが、本当にやりたい作品内容をやりたい作家に書いてもらいそしてコツコツとやっていく。これが2003年初頭に44北川の中で芽生えた「3年計画」です。

もしご興味のある制作さん、これから3年間、付き合ってみてやろうかな」、と言う奇特な方などいらっしゃいましたら、是非、ご連絡いただけましたら幸いです。

本能と直感と自分を信じること。

それだけは誰にも負けずに上京してからの8年間続けております。今後とも、よろしくお願い致します!

どうも最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。自分のHPにはもっと長い日記が毎日更新されておりますので、よろしければ、そちらもどうぞ(笑)

ではでは

44 Produce Unit

44北川
2003.1.27


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