小松杏里の乾坤一滴
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2010年7月上海万博に行った時に外灘から浦東をバックに(2011.8)
小松杏里プロフィール

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(暫定公開中)

制作・編集:StagePower2.0

乾坤一滴20110816

 1年3カ月ぶりの乾坤一滴だ。なぜ、そんなに空いてしまったのかというと、単に文章をまとめている時間がなかった、というか、そういう時間を割いていることが出来なかった、というか、単にさぼっていただけで(すいません)、別にやめたわけでもなく、ただ時間だけが過ぎてしまっただけなのだ。もちろん、その間、何もなかったわけではなく、また、誰かが亡くなったとか、仕事が変わったとか、特別なことがあって書けなかったわけでもない。それこそ、当たり前だがいろいろなことはあり、実は、前からずっとやっているmixiにはいろいろ書いていたし、最近、FacebookTwitterも始めてしまい、実名で時々書いてはいる。

 しかし、あれはやっている人じゃないと見れないし、FacebookやTwitterは私自身まだよく使い方もわからないし(あれって、自分で書かずに別の記事を引用して来るだけの人が多い気がするんだけど、そういうものなの? まぁ、みんな自由に使えばいいんだろうけど……)、かといって、今さら自分でブログを始めるのもなんだし、そうだ、これがまだ残っている、というか、StagePower自体がリニューアルするらしいので、ここでしっかりまた書こうかな、ということで、乾坤一滴を再開することにしたのである。再開で再会、というわけだ。

 まぁ、そんなことをつらつら書いていても、いつも通り文章が長くなるだけなので、これぐらいにして、再開ということで、サブタイトルも「パライソ編」から「ゴーゴー編」ということにした。色も変わるかな。

 なぜ「ゴーゴー」なのかというと、私は今54歳なので、とりあえず来年2月の55歳の誕生日を目指して、「ゴーゴー」と突き進む意味を込めて、である。芸がなくて、すみません。ちなみに「パライソ」というのは、パラダイスの意味でもあるが、実は「パライソ」というタイトルの芝居を考えていて(これが今の時代にピッタリの、なかなかの傑作になる予定なのだが)、その公演が出来るまで、それをサブタイトルにしようと考えていたのだが、ダメだった。いや、まだわからないけど(笑)。ま、いつかまたやれそうになった時に、「復活パライソ編」とでもしようかな。今はとりあえず、ゴーゴー!

 さて、もうすぐ終わりではあるが、夏といえば、お盆である。お盆には、親が亡くなってから毎年、迎え火と送り火をやっているので(今年も送り火には義妹家族も我が家に来て、やった)、その期間は家にいることが多い。もう14年になる。私も妻も、それぞれ東京と神奈川生まれなので、田舎というものがなく、帰省という行事とは無縁ということもあるが。

 そのお盆の入りの前日の8月12日(金)、懐かしい集まりがあった。いや、懐かしい、というより、まるで、タイムスリップしたかのような飲み会、とでもいえる集まりである。1976年から1988年まで私が主宰として活動していた、演劇舎螳螂[とうろう]のメンバーが集まったのだ。場所は、今は劇団道学先生にいる、かんのひとみが予約してくれた、道学先生の飲み会でよく使う、新宿の三平ストアの上にある居酒屋。そこに、なんと21人も集まった。螳螂の活動期間は12年に過ぎないが、80年代の小劇場演劇界に一応名を残してはいる、と思う。とはいえ、今の若い演劇人は知らないだろうな。40〜50代の演劇人なら、知っている人も多いと思うが。

 その集まりには、役者たちだけでなく、イラストレーターで螳螂のチラシの絵や舞台美術もやってくれた吉田光彦さんや、84年の「ミカエラ」の再演から制作をやってくれた小松克彦こと克ちゃん(私と同姓だが、血のつながりはない)や、昔から螳螂を観てくれていて、『銀幕迷宮-キネマ・ラビリンス-』の台本を書くにあたっての資料をいろいろ貸してくれた日刊ゲンダイの山田勝仁さんも来てくれた。吉田さんとは、吉田さんの漫画の単行本を私が編集して出したことがあり(『ペダルに足がとどく日』81年、『視感』83年)、家も下北沢のご近所同士だったし、克ちゃんは、それ以前に、彼が仕事をしていたアリス出版(私が原稿を書いていた『少女アリス』等の出版社)からの付き合いだし、山田さんと初めて会ったのは、下北沢の私の行きつけの大好きだった店「古里庵」だった(「古里庵」は2009年の1月で閉店してしまった)。「古里庵」のママが山田さんと同じむつ市の生まれで、店で川島雄三の話をしたら、川島雄三の甥っ子を知っているという山田さんを紹介してくれたのだ。みんな、もう30年近い付き合いになる。そうそう、吉田さんにはこの前、長男のみんとが初演出した芝居の舞台美術もやってもらい、吉田さんに「まさか、親子で関わることになるとは思ってもいなかった」と感慨深く言われた。その話はまた改めて。

 螳螂の活動期間は12年間で、当然、その間、役者たちの入れ替わりもあり、途中で辞めた人もいるが、今回の集まりは、そういう人たちも来てくれた。まぁ、みんな当時は、今みたいに小劇場でもギャラが出たり、文化庁や役所から助成金をもらえたりするわけではなく、ギャラも出ないし、自腹を切りながらも好きなことをやるという、熱い青春の一頁を過ごした同志たちだから、何のわだかまりもなく集まれるのだろう。男女間でいろいろあったのも、もう20年も過ぎてしまえば、みんな時効だ(笑)。いや、私じゃないけど。

 というわけで、集まったのは、最後にみんなで撮った集合写真の、前列左から、硝木美絵、藤森しの、菅野ひとみ(かんのひとみ)、遠藤智恵美、私、美加理、小松克彦さん、後列左から、津田卓也、葉月あよ、ちょっと下に、原幸子(原サチコ)、上に戻って、佐藤美佐緒、阿部能丸、黒田隆千代、武藤直樹、高橋かほり、高橋滋己、渡辺敬彦、吉田光彦さん、新井優子、下に、水生小夜、そして、山田勝仁さんの21名。※( )は、今の芸名。

 この中で古株なのは、82年の初演の「ミカエラ」に出ている、美加理、阿部能丸、渡辺敬彦と、初代の由紀さんをやった水生小夜だ。そういえば、初演の「ミカエラ」には、その後、漫画家で売れた桜沢エリカも出ていたなぁ。呼べばよかったかな(笑)。かんのは道学先生、武藤はラッパ屋にいるし、美加理と渡辺敬彦は静岡で芝居をすることが多く、阿部はフリーで、原はドイツで、今も演劇活動をしている。私も、まぁボチボチやってはいるが(笑)。別の写真にもあるが、かんのと原と藤森と黒田と高橋かほりは同期入団だった。そのうち、藤森しのは、何と、すでに孫がいるという。そろそろアラフィフとはいえ、若いおばあちゃんだ。黒田は、まだ1歳にもならない4人目の子供がいるというのに。ほかにも、未だ独身だったり、離婚したり、再婚したり、シングルマザーだったり、なかなかバラエティに富んだ生き方をしている連中ばかりだ(笑)。

 この日、今や大きな舞台で大活躍している大鷹明良は、彼の地元・名古屋での地方公演のため来れずに残念がっていたし、長沢荘六は故郷の新潟に戻って居酒屋をやっていて来れなかったし、かんのたちと同期の林もも子は大阪にいて、その場で電話で話したが、「人前に出れるような身体じゃないんですよぉ」と、相変わらず不思議なことを言っていた。今や、アルピニストで写真家としても活動し、詩集まで出した神宮司修は、翌日からの写真展の準備で来れず、ほかにも、のまひろみや藤掛利佐、中野正紀、須和野裕子、稲田美穂子などなど、この日来れない人もたくさんいた。劇団員ではないが、螳螂のビデオをずっと撮ってくれていた、私の小・中学校の同級生でもある胡谷君は、中国の女性と結婚し、香港と中国で仕事をしていて来れなかった。高円寺で「ヨーロピアン・パパ」という中古レコード店を経営している新童龍二は、会が終わってみんなが出る頃に来て、ほんの少しの時間だけ2次会で一緒に飲むことが出来た。まぁ、彼とはいつでも会おうと思えば会えるが、中には長谷川淳一や関根信二など、連絡先がわからない人もいる。みんな会いたがっているので、もし、これを読んだら連絡くれよぉ! 最後に、いずれ、本当に(笑)、演劇舎螳螂のホームページを作る、という約束をして、参加したみんなの今の連絡先を聞いた。まぁ、どれだけの人が螳螂に関わったかは、今、昔からの資料をまとめ始めているので、いずれわかると思う。今は亡き劇団のホームページなんて、おもしろいじゃない(笑)。

 そんなわけで、とりあえず、再開初っ端の乾坤一滴は、やはり演劇の話から、ということで、螳螂の同窓会の話にした。今回はここまで。次回は、この夏のほかの話でもまとめて書こうかな。今週末には、アニサマもあるし。

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会の最後にみんなで撮った集合写真。誰が誰かは本文参照。みんなアラフィフ近いか、それ以上なのに、若いと思う。


美加理とのツーショット。何年振りだろ? あ、ツーショットじゃないけど、乾坤の2004年の10月第1週にあった(笑)。


美加理と原の、かつて小劇場演劇界のアイドルと言われた二人のツーショット。二人とも相変わらずお美しいことで。


84年の『聖ミカエラ学園漂流記』再演のオーディションで螳螂に入って来た同期の5人。左から高橋、黒田、かんの、藤森、原。原は螳螂解散まで5年間在籍した。