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アンファンテリブル前川麻子
オンライン公開インタビュー


2002年8月
アンファンテリブルホームページBBSにて

by 一寸小丸


出 演
本間美奈子1
本間美奈子

本間美奈子2
本間美奈子

立花あかね1
立花あかね

立花あかね2
立花あかね

加藤忠可1
加藤忠可

吉岡睦雄1
吉岡睦雄

前川麻子1
前川麻子

前川麻子2
前川麻子

このインタビューはアンファンテリブルのホームページにあるBBS(掲示板)上で公開で行われた。週刊FSTAGE編集部一寸小丸と前川麻子氏の交互の発言で、7月26日から8月10日まで、約30発言(約800行)がなされた。以下はその要約である(全文はこちら)。(左の写真は稽古場にて撮影)


少女の会話

少女A「早くおばあさんになりたいなあ。」
少女B「えっ、なんで?」
少女A「だって、おばあさんになって歯が全部抜けたら、フェラチオうまくなるもん。」

こんな会話の芝居を前川麻子は書いていた。これは確か、ケラが演出した浅草での公演だったような・・・。(記憶が定かでなくてすまん。ただ、インパクトは強烈だった)

1991年には、「かげろう、稲妻、水の月。」という作品ではFSTAGEの野郎どもを熱くさせている。おやじばっかりが寄ってたかって、少年少女のナイーブな感性を熱く語っていたっけ。吉田秋生の傑作漫画「河よりも長くゆるやかに」を舞台上に現出させていた。素晴らしかった。

前川麻子は天才である。
したがって、人格は歪んでいる。
したがって、面白い。

いえ、別に人格が歪んでいるから面白いものを作れるとは限りません。ただのバカだっていっぱいいます。また、天才だからって、それがどうした、ってのがこの世界です。天才なんていっぱいいますから。

若くして映画の世界に飛び込み、女優賞を総なめにしてしまった前川麻子。その後、芝居に転身し、劇団を旗揚げして演劇賞を総なめにしてしまった前川麻子。一昨年、初の長編小説を書き、「小説新潮長編新人賞」を獲得してしまった前川麻子。「次はレコード大賞でもとろうかな(笑)」と言い放った前川麻子。ものを作る、表現するということに関し、その才能をいかんなく発揮している。天才である。でも、そうは言っても、前川麻子の名は知るひとぞ知る存在。若い演劇ファンの子は、ほとんど知らないという・・。

まずは、前川麻子氏に、今回の作品について尋ねた。

「非常にリアルかつ端的にわかりやすい情景を切り取ったつもりです。」「日常性が一番ドラマティックだと思うのよ。そーんな大変なことが、こーんなところで、こーんなふうに!っていう、そのシチュエーションは、日常が一番、劇的だと感じるし。」

キーワードは「日常」ですね。しかしながら、できあがったホンはいつものように、役者に対して多くを求めている。セリフが「感性」とか「存在感」とかを求めているのだ。かつて、前川戯曲にあった「少女のナイーブさ」みたいのは時代を反映してか薄れているようだが、それでもそこにいる人間の繊細さが描かれており、役者にもそれを表現することを求めているようだ。で、尋ねた。「役者には何を期待し、何を求めているのか?」

「ほんとーにね。ごく普通のことですよ。ホンに書いてないことをやってくれ、ホンにないことを見せてくれって、それだけです。ホンにあることを形にするためだけの役者なんざ使いたくも観たくもないです。そんなの、人じゃないじゃん。人間として不自然でしょ。つーか、別にその役者じゃなくてもいいってことでしょ。」

うーん、厳しい。厳しいが当たり前のことを言っているとも。んでは、今回の出演者はどっから集めてきたのか?

「えーと、カトチュー(編集部注:加藤忠可)とは流山児★事務所のプロデュースで一本だけ一緒になったことがありまして、それ以降の親友です。渡辺杉枝と三人で「アンファンテリブル・エリート」を名乗り、「主婦マリーがしたこと」をプロデュースしましたが、それでも主演してもらってます。

本間さんことアベちゃん(編集部注:本間美奈子)はWS一期生、つまり八年目。吉岡(編集部注:吉岡睦雄)は出戻りで復帰してからももう三年くらいかなあ。アカネちゃん(編集部注:立花あかね)は、NHKのうーんと後輩で、OBの飲み会でナンパしました(笑)。

ここだけの話し、あたしも出るつもりでいます。やはり、やむをえず。これ、宣伝してください(笑)。」

「ここだけの話し」って・・・。にしても、役者・前川麻子を観れるのは嬉しい。作家の前川ファンも多いが、役者前川麻子ファンはもっと多いでしょうから。来年、佐藤信の鴎座が復活するらしいが、それへの参加も決定したとか。「役者」やるんじゃん! 新たに劇団作ったら、作・演出に専念するのかと思ってました。

「いんや、別にこだわってません。ただ、今後とも役者を抱える劇団にするつもりは全然ないです。劇団にしたのは、児童会旗揚げからの右腕的存在であるタケ(編集部注:中上武彦)が、就職するって言い出したもんで、「あんたの帰る場所は、いつでもここにあるぜ」っていう気持ち(というか思いつき)で、劇団宣言しただけです。タケは一旦就職したものの、1ヶ月でクビになりました(笑)。」

というわけで、「劇団」にして「五年ぶり」の新作を上演するわけです。「五年ぶり」です。「劇団」ではあるけど、前川・中上の二人劇団。従って、役者を集めてのプロデュース公演という形です。品行方正児童会の頃と今とでは、何が違っているのかを尋ねてみた。

「つーか、全然違う。もう何が違うか自分じゃわからんくらい、全部。役者の面倒をみるのはもうこりごりってところでは、児童会を辞めた当時と今も変わらないけど。なんだろうな、なんとかせにゃならん的な気負いがなくなったんだろうと思うけど。やりたいことを、やりたいときだけ、やりたいようにやるっていう、自由があるからね、今は。

 結局、劇団ってそれがないでしょ?少なくとも児童会はそうだったもん。今、一番大きいのは、やりたくなきゃやらんでいい、って自由があることかしらん。観客はもう古いともだちみたいな感じで、ああ、あいつらともしばらく会ってないなあ、久々に誘ってみようかな、どう?ちょっと飲みに出てこない?って感じで芝居やれるから。だと思ってるんだけど。」

「飲み会」ですか・・・。実のところ、多くの演劇人に共通の感覚でもあるんだよね。でもね、そこはやっぱりつっこみたくなるじゃないですか。だって、芝居って、そんなに簡単に作れないし、アンファンテリブルの稽古場もちゃんと修羅場化しています。そうまでしてなんで芝居すんのか。「飲み会」だけやればいいじゃんって思う。

「そう言われてみれば、そうですねえ(笑)。しかし、飲み会やっても、どうせそこにいるあたしは「前川麻子」を演じるわけでしょ? で、誤解を恐れずに言えば、あたしは観客には興味がないんで(笑)、別に飲み会をやる必要もない、と思うんですが。あたしには、飲み会より、芝居の方が楽ってことなんでしょうかね。」

むむむ・・前川さんと芝居との距離が見えてきたぞ。

「よその誰かには「芝居はしんどい」のでしょうが、あたしには「芝居してるのが一番楽」ってことだと思うんですよね。普通に日常を生きてく方が、ずっとずっとしんどいです、あたしゃ。」

くすくす。そりゃ前川さんの波乱万丈の人生は、そりゃもうしんどかろうて・・・。

ところで、前川さんは一昨年、初めて書いた小説で文壇デビューしちゃいました。そっちでも表現できることになったわけです。だから、芝居と小説との距離も合わせて聞いてみました。

「小説一冊書いても、芝居一本やったときみたいな解放感とか、充足感とか、ないんだよね、まだ。それは充分なことができていないからかもしれないし、あたしが小説において「それしかできない人」じゃないからかもしれない。しかし仕事として成立するんだから、やります。で、注文がこなくなったら、辞めます。

これは芝居も同じだと思う。基本は「それしかできない人」がやることだけど、仕事として成り立つってまた別のことでしょ? あたしは、結局、やりたいとかやりたくないとかで自分のやることを決めてきてないと思うのね。注文に応じるって形だけで、自分のやるべきこと、自分にできうることをやってる感覚なのですね。だから観客が誰一人こなくなったら、芝居も辞めると思うし、そもそも観に来てくださいって言うの、好きじゃないから。

表現したいって欲が、ないはずないんだけど、意識したことない気がする。元々、テーマとかメッセージとかのない作り方してるし。ただ、仕事っていう意識が異常に強いのかもしれない。」

自分がやれること、やりたいことを、やる。表現することが日常なんだね。それで、お客さんが来てくれる限り、やる。お客さんに「期待していること」ってあるのかな?

「うーん。あたしは、観客には思考する義務も責任もないと思うんだけど。思考ってのは、作る側が必要なときだけすればよくて、それにしても、結局本質として要求されることは感覚っていうか、考えることより感じることだと思うのね。で、お客さんにもそうであって欲しいな、と。いや、それもちょっと違うかな。別に、お客さんには、今はもう何も求めていない。考えようが感じようが、なんでもいいです。ただ、そこにいて、しっかり観て下さいよ、と。「やる」から「観て」って、それだけだよね、本質は。「観る」から「やって」って形でやってますけども。」

なんか、作ってる側も「日常としての演劇」だし、お客さんも「日常の延長としての観劇」みたいな状態なのかしらね、この関係は? それでも「表現する役者」としての前川麻子って存在もあるわけで、さすがに役者は自己顕示欲でしょう、と思わずにはいられないわけです。

「今日の稽古でも、表現しようとする役者に対して、「貧乏臭い」「薄汚れてる」「みすぼらしい」などと悪口雑言を吐いて、傷つけてしまいました。>某女優さん、ごめんね。

昔、キャラメルで共演した小宮さんに「マエカワは、舞台の上に、ただいるだけ、ってことができる珍しい役者です。それを学びたい人は、マエカワのワークショップに行くといいかもしれない」って言ってもらったことがあるんですが、実にそうでありました。が、これが難しいんだろうね。表現欲のある人にしてみれば。どうして、「ただいるだけ」ってことができないのか、不思議で仕方ない。つまりさ、表現欲なんて金銭欲と同じだと思うんだよね。なくても平気、いらない、使わないからって人には、どうしてそんなに稼ぎたいのかがわからないし、お金欲しい、だってお金がすべてじゃんって人には、お金なくてどうやって生きていけるのか?と思うわけでしょ。ま、あたしの場合、金銭欲は旺盛ですが(笑)。

でもね、「ただいるだけ」ってことの難しさを、そのまた大昔にずばり指摘して誉めてくれたのは、白石加代子さんだった。「マエカワさんは、舞台の上で一瞬たりとも、素を見せないところがスゴイ」と。「素でやってるでしょ」と言われがちなあたしにとっては、流石白石加代子!と思った一言で、とても嬉しかったのを覚えてる。」

ほんとにまあ、「ただやるだけ」なんですねえ。

「ま、そんなこんなひっくるめて、「表現しようと意識したことがない」んであり、「芝居が日常」という感覚だったりするんであり、…だと自分では思うんですが。」

ということなんですねえ。前川さんと芝居との距離が見えてきたように思います。で、最後に、ちょっと調子こいてるなとは自分で思うのですけど、「それで、書いてあることが伝わるのか?」を、聞いちゃうわけです。すみません。

「伝えたいか?というのもねえ。うーん。伝えようという作り方ではあるけど、伝えたいというより、感じさせたい、ってことかなあ。

お芝居というニセモノの日常、でっちあげの出来事は事実ではないけど、そういうことを、事実のように知らせることで、観客に何かの感覚が生まれたらいいな、とは思う。

例えば、カトチューやあたしの芝居(表現)と、ギャルズの芝居(表現)のでは、本質的に要求されてるのは「人としてのリアリティー」だから同じだけど、それを見せる技術があるかどうかってとこで決定的に違うと思うんだよね。普通に年とって人としての深みが増せばそれも役立つし、単純に演技の技術があればそれでいいわけで、でも、その本質に「人としてのリアリティー」をなくしちゃったら、もう全然お話にならないと思うわけ。

そういう役者さん、多いじゃん。そういう役者の芝居見せられちゃ、観客はそりゃ「劇的」だなとしか思わんさ。で、それって、やっぱり、「知らせる」ことにならないと思うわけ。思想があって、それを劇的に演出して作る芝居もあるわけで、それって、あたしからすると、思想や劇的な手法を「伝える」ってことに思える。それはそれでいいんだけど、あたしは、あんまり興味がないってことで。

それってつまり、あたしの意図とは関係なく、芝居そのものに何かを「伝える」力なり、「知らせる」力なり、「感じさせる」力なりがあるってことだと思うのね。で、それはあたし一人でできることじゃなくて、役者とかスタッフさんとかは勿論、それを受け止める存在としての観客がいないとあり得ないことだと。

ややこしくなってきたかもしれないけど、ひらたく言えば、「伝える」ことが成立するのは、「伝わる」相手(何かが伝わったと感じる観客)がいないとあり得ないし、「知る」にしても「感じる」にしてもね。だから、創り手の意図でそれを選択しようってのは、厚かましいんじゃないかと思うのね。創り手は創ればいいんだって。できること目一杯でさ。大体、「伝えよう」なんて厚かましいこと考えて芝居創ってる奴の芝居って、面白かった試しがないじゃん(笑)。」

なるほどねえ(感心してるオレ)。前川さんとこの二人芝居シリーズを見てきて感じてたことが、クッキリしてきた感じです。だって、感じさせるのって、やっぱ大変だと思うんだよ。それは前川さんの感性と共鳴することですからね。お客さんにもひりひりするような生き方を選んでいる前川さんの感性が必要ってことでしょ。お客さんも大変だよな。いや、ハタでみてるとひりひりしてんですけど、ご本人は「ふつう」なんでしょうから、そうでもないのか。

いやいや、それだから、二人芝居の会場である六本木・将軍の空間は、異様なムードに包まれているんでしょうね。共感がベースなんですけど、宗教ほどは熱くないし、若い子ほどはまったりしてないし、世捨て人集会ほどは乾いていない・・・。

なにはともあれ、こっちは見ていくつもりです。ちゃんと発表の場が続いていくことを祈ります。前川麻子として生き、前川麻子として演じ、前川麻子として作品を日常的にたれ流してくれることを期待します。自分の感性が衰えてしまう不安を意識しながらも、見続けます。

全文はこちら

アンファンテリブルプロデュース
「ネクスト・アパートメント」
2002年8月16日〜18日
@高円寺・明石スタジオ
前2500円(週刊FSTAGE予約2300円
(ギリギリでも予約してみてください。当日受付で週刊FSTAGEを見たといえば、きっと2300円になります)

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