とりあえず、乳もんで。
〜西山水木論〜
文責:編集部 じんぼまさのり
ラ・カンパニー・アン(La Compagnie A-n)の公演「犬の恋」(2003年5月@下北沢・本多スタジオ)を見た。素晴らしかった。で思ったのは、1回だけ見て素晴らしくても、それが毎回なのか・・・今回、たまたまいい役者がいたからなのか・・・どっちなんだろう、ということ。それを検証したいが、次回公演が先だとすると、手はない。あきらめていた。が、なんとアンの方法論のワークショップがあるという。もしかするとそのワークショップを見れば「犬の恋」の面白さが偶然のことなのか、必然であったのかがわかるのではないか。
10月3日(金)、代々木オリセンのアンワークショップを訪ねた。
このワークショップはスタジオ・ジャルダン(Studio Jardin)のサポートを受け、2003年9月〜10月に8回限定の短期ワークショップとして開催されている。2004年からは長期のワークショップが企画されている。アンの方法論を体験できる場だそうだ。身体とダンスをアンの明樹由佳、コトバについてをジャルダンの三上その子、声と芝居をアンの西山水木が指導する。ぜいたくなワークショップだ。
■18:30 身体のワークショップ
明樹由佳さんの指導で身体を使った稽古が始まった。部屋全体を使い、走りまわったり、止まったり。メンバー間の距離や向きがテーマ。やっぱ「コミュニケーション」がベースになってるみたい。だよね。芝居はやっぱ「関係性」だからとか思う。
二人ずつ組になって、背中合わせで座った。で、身体(背中)で会話するとか。押したり引いたりと、うごうごとした「会話」が数分続く。の後、どういう会話を行ったつもりかを、コトバで確認。「つもり」と「受けた印象」のギャップだ。
19:00からはダンス。「明日ヲ見ル丘」という歌に合わせた身体での表現。各自が自由にプランする。2度、曲を流して各自の確認のあと、発表。歌の内容は「情景」と「思い」。しっとりした曲だ。に合わせて、踊る、というよりは「身体で表現する」のだ。
舞台には3人が上がる。一人は「受け」を担当し、残りの二人がその一人に向かって同時に踊る。よって、表現の際には、受け手の一人と、別個に踊っている一人と、部屋全体(空間)を意識しなければならない。が、みんな「その場」にいての表現となりがちだった。部屋のカベや設備を使えない。ましてや、受け手との「距離」も変えられない。「関係」に変化が起きない。「マイム」になりがち。普通の「ダンス」っぽい。「歌詞」の説明。自己完結。もっと自由に動けるはずなのに・・・。
さて、それに対しての明樹さんのコメントは、「どう見えたか」。表現としてのいい悪いではなく、それを完成されたものとして、何が伝わったのかを示していた。役者さんたちが表現した「つもり」のこととギャップを確認できたろうなあ。
見ていて「身体表現」とか「身体言語」というコトバが浮かんだ。けど、ここでやられていることは「身体コミュニケーション」だ。前者は一人だけのパフォーマンスを含むけど、後者は二人以上での表現だから。みんなの「歌に合わせた身体表現」を見ていると、どうしても一人芝居になっているように思えた。「コミュニケーション」「関係性の表現」にはなっていないと。舞台に二人とか三人がいるとき、ある一人の役者が表現していることと、三人全員を見ている客とでは、別の「絵」になるということだろう。一人の役者はその歌を表現するわけだが、見ている人は、他の役者との距離や、二人の表情、リアクションで関係を解釈し、意味を作って見ている。ということは、一人の役者が表現すべきことは、他の役者との距離や、リアクションを前提としたものでなければならないのではないのか・・・。なんてことを感じたよ。
セリフを使わない表現=自分の思いで自己完結しがち。だと、リアクションを引き出すには至らないことが多い。・・・引き出さなきゃ。
この稽古って、「関係性」がテーマじゃないのかなあ。「関係性」を見せないと。「関係性」を構築しないと。・・・なんてことを感じていた。けど、「どう見えるか」はどうでもよくて、「私」が自分のイメージをどう表現するか、でいいのかもなあ。それを明樹さんが見て、ギャップを示してくれるわけだから。まあ、そんなとこかも、と思い直していたところで終わりとなった。
と、そこで登場した西山水木。ずっと黙って見ていたのだが、どうも黙っていられなくなったみたいで・・・。で、言ったのは、役者間の距離で関係が変わる、と。「関係」がどう見えるかがやはり問われているのだった。そこは意識しないとならない、みたい。受け手さんと自分、そしてもう一人の表現者との関係、さらに部屋の位置、すべてが意識されねばならない。距離や人の向き、壁との関係、設備(鏡、音源)・・・全部意識してやるのは難しいよなああああ・・・まあ、「役者」はやるんですけど。
■20:00 コトバのワークショップ
ジャルダンの三上その子さんのレクチャーが始まった。この講義はアンの普段の稽古では行われていない。今回の特別講座だ。始まったのは「演劇」におけるコミュニケーションのレクチャー・・・のようだ。役者は何をしなければならないのか、演劇に必要なのは何?、など。「感受性」の重要さ、などが指摘され、役者としてイメージの具現化(表現)に求められることは?、などが問われる。コトバと身体の連携が重要とも。「話しコトバ」を使う、ということの本質に迫る。ナゼ話すのか?から、哲学的な分析が発表される。
・・・うーむ。
役者って頭悪いから、哲学とか言われてもわからんのじゃないのか。奴らは理屈を理解するのではなく、「感じたことをやってみる」人種だから・・。
思ったこと。この講座、言ってる内容が重要だとは思わない。しかし、芝居に関わる者たちが「表現するということ」、「自分たちがやっていること」について考えることは必要なことだ。受身で「授業を受ける」のではなく、自分で考えないと。いろんなことに「意識的」でないと。講座で言ってることは「芝居で表現しよう」というのを3年必死でやってれば身につくことだ。それを新人のうちから意識して稽古することはすごく意味がある。「表現する」って何?、ってのを5年経って話せない役者って多いもんなあ。
とは言え、「意識する」ことができるのと、それを「表現する」というのは次元が違う。必要条件ではあるけど、十分条件にはなり得ない。早い段階で必要条件を与えられるのは、かなりラッキーだとは思うけど。
■21:00 台本を使っての稽古
21時からは西山水木の指導による二人芝居台本を使った稽古が始まった。台本は二つあった。一つは先日の「犬の恋」で使ったもので女同士の会話。もう一つは男女の会話で、これがすごく良くできた会話だった。役者さんに、どっちの芝居をやりたいかと質問があったが、私なら断然、男女のやつだ。稽古のあとで聞いたら、その芝居は田嶋ミラノが前々回の公演で書き下ろしたものだったとか。・・・そりゃ素晴らしいわけだ。
ほんの3ページ、4分ぐらいの芝居だ。読んだとたんに、二人の関係は熱いものであることがわかる。いや、すっとぼけて他愛もないことをしゃべっているんだけどね。でも、「ハートはドキドキ」もんだ。表現が陳腐ですみません。はたして、それをワークショップの役者さんはどう表現するのか・・・。
男女が二人選ばれ、それをやってみることに。一通りやってみるが、途中で水木さんが止め、作り直しに。二人のキャラ、状況を作る。あまりにも暗い芝居だったけど、明るくなった。
しかし、間があく。暗い。見つめ合って立っている・・・。水木さんは「見ないでいい」と。
立ち稽古だから、距離やリアクションが大事だ。二人ともセリフはきちんと発しているが、その関係は見えてこない。どっちかというとよそよそしい。愛し合っている二人には見えない。なんか、つらい人たちのような・・・。で、水木さんがそれを否定するのかと思ったら、「じゃあ、そのラインで行くならねえええ〜」と、そっち路線で作り始める。う〜ん、難しいだろお。
延々と試行錯誤が続いていった。たった4分の芝居だけど、その登場シーンから二人の関係はクライマックス直前で、4分後には「いっちゃっている」のだ。そんな芝居が要求されている。こりゃ大変な芝居だぞ。登場した女優がどの位置で止まるかで、二人の関係が決まる。女優に気づいた男優がどういうリアクションをするかで二人の関係が決まる。他愛もない会話をどう持っていくかで関係が・・・。
最後に西山水木は、その芝居を見ている客側のみんなに言った。「こっち側(見ているみんな)の気持ちも重要なのよね。見てて思うでしょ。早く行けよ、とか、なぐるぞ、とか。そういうのも大切。ね。」・・・何が「ね。」だか・・・。
しかしまあ、大変な稽古だった。すごく良くできたホンだったから、いい芝居になりそうだけど、でも、二人の関係を示す「前置き」の芝居はカットされている。つまり、ここで使われたテキストは90分の芝居のワンシーンではないのだから。ラ・カンパニー・アンの芝居では、こういう短いクライマックス芝居が断片的につなぎ合わされている。キャラクターを紹介するシーンとか、二人の性格を現すシーンとかは、ない。登場し、目が合った瞬間の芝居で、二人の関係を客に理解させねばならないのだ。
水木さんの中では、ストーリーがどうの、とか、「どんでん返し」とかには興味がないみたいだ。複線張ってどうの、とか、起承転結で結局、とか。「関係性」も一瞬で表現するし、そこでの役者同士のバトルが楽しいのだろう。男と女のバトル、女と女のバトルだ。そこにしか興味がないみたい。そういう生き方してきたもんねえ。いや、よく知らないけど。
芝居の稽古で「関係性」だけに注目してりゃ、「芝居」という細かい約束ごとはいらなくなる。また「関係性」を身体や距離で表現し、「セリフの積み重ね」や「コトバの選択」よりも、二人の登場した瞬間でわかってもらえるのであれば、芝居の進行は全く変わるわけだ。ラ・カンパニー・アンの「犬の恋」はそれをやっていたのだ。・・・そういえば、初期の双数姉妹もそんなことやっていたっけなあああ。
世の中では「わかりやすい」ということが重宝される傾向がある。三段論法のように、順序立てて説明されるもの。展開も、まるで予定調和のような進行が「親切でいい」みたいな。なんでしょうね? 世の中、いろいろ大変なことが多いから、金払って見るものぐらいは、頭使わず、脳みそにたれ流されてくるのがいいってことなんでしょうか。二人の男女が近づいてきて、立ち止まった位置だけでいろんなことを理解するのは・・・めんどくさいんでしょうかね。目線のあわせ方、近づき方、リアクションの取り方だけで「愛」の様々な形を空想するのは、楽しいと思うんですけど。修羅場があってこその「生」ですもんね。・・・やっぱめんどいかなあ。
西山水木は、ある種の人が「めんどくさい」と避けちゃうことに興味があるのだろう。そしてそれを別のある種の人々は、かなり面白いと思ってくれるはず。・・・ってゆうか、世の中、こういうことを面白がれると、なんつうか、いい感じになるんじゃないのかなあ。ああ、でも、2003年の「癒しを求める人」とか「リストラの危機」とかの人々には、ダメかも。・・・くそーっ。修羅場でいいんでないの? 修羅場あっての「生」でないの。
「犬の恋」ってのは、断片それぞれが、修羅場一歩手前から始まって、あっという間に修羅場になって、そしてすぐに別のシーンに移って、また修羅場があって・・・と進行していた。見ていると、めちゃめちゃ忙しかった。私の心は右往左往だった。そういう唐突な修羅場を一瞬で演じられる役者はすごいとしか言いようがない。役者に求めるものは高い。なんせ、シーンの頭ですでにてんぱってるんですから。とりあえずビール、とか言って「徐々にペースを上げていく」んじゃない。「男と女」で例えるなら、あれやこれやの駆け引きや、二人が歩んできた艱難辛苦などの説明は全部吹っ飛ばして、「言いたいことはいろいろあるけど、とりあえず、チチ、もんでみる?」ってなもんだ。・・・そこからかい!って思うよなあ。もんだら最後、後は修羅場だもん。それが西山水木ってもんなんだろう。よく知らないけど。
出てきた二人の距離、存在感、リアクション、声の震え、目線の動き、・・・そういうのですべてを表現しちまうことができるのは「演劇」だけです。演劇だけが、いきなりクライマックスの右往左往をやれるのです。他のメディアでは不可能です。優れた役者を集めて、今後とも、水準の高い舞台を提供してくれることを楽しみにしています。
AnワークショップHP
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