大江戸演芸捜査網
〜楽屋口と客席の間で〜

(61) 2003.3.23 ■「落語とWeb、そして私(14)」

「吟醸の館」《落語の舞台を歩く》裏話

吟醸

吟醸の館

これからは、『落語の舞台を歩く』のその後の舞台裏を書きましょう。

 前回は吉原の今の情景を書きましたが、古き良き(?)時代は過ぎ去ってしまったのでしょうね。

 古典落語の世界の舞台は江戸の後期から明治の時代が主になります。これは今から約100年が経っていますので、その時代の風情が残っているのが不思議なぐらいです。「それを言ったらおしまいよ」と寅さんに言われそうですが、100年以上その状態が保持されているのは大げさに言えば神社仏閣や隅田川ぐらいでしょう。道路も改修されて、曲がった道路は直線になり、川は埋め立てられて道路や公園になってしまいました。町並みも震災や戦災でがらっと変わりましたし、首都高やバイパスも出来て町の感じも変わってしまいました。

 その変わった世界を楽しみに出掛けるのが『落語の舞台を歩く』です。

 道路が変わってしまって、分からなかった事は「文七元結」の達磨横町の叔父さんが住んでいる所です。古地図で調べると、正式名称ばかりで、俗名称は書いてありません。俗里地図を書き上げた歴史家がいまして、その人が作った地図からやっと発見したのは良いのですが、当時の道は弓なりの曲がった路ですが、今は整備されて方眼状になっています。2本目の路をとっても3本目の路をとっても間違いとは言えませんし、正解とも言えません。

 また、「黄金餅」では東京を縦断する行程を歩きますが、飯倉片町(麻布台3丁目、首都高速下)〜おかめ団子屋の前(六本木5-18-1)を左折します。落語では、「飯倉片町を左に折れて・・・」と言いますが、現在の飯倉片町は東京オリンピックの為に新しく出来た道路です。車で曲がると落語の説明通り行かれるのでこの角がおかめ団子の有った所と勘違いしますが、旧の角まで来ると地名も変わってここが?と思わせます。事実この角の店で取材をして、70歳見当のご主人に聞いても「良く分からない」と言います。そのように江戸は歴史の彼方に行ってしまったのでしょう。

 隅田川を舞台にした噺は沢山ありますが、当時の呼び名”大川”ですし、橋の名前は同じでも現代の橋は4代目や6代目であったり、架かっていた場所も当時とはずれています。中小の河川では大部分が埋め立てられてしまいました。「乳房榎」では新宿角筈十二社(つのはずじゅうにそう)権現(熊野神社)の瀧は既に無く、公園の外周道路になりはてていました。でも、道路の高低差は当時と同じで瀧の大きさは想像することが出来ます。

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 ボツになる取材原稿が有ると前回書きましたが、その中から吉原の悲惨な事を書きましょう。通称吉原公園その中ほどに弁天池があり、震災の時避難してきた遊女達が火から逃げるため多数水死しました。今はその一角(千束3−22−3)に、これを供養するため、弁財天が祀られていますが、この時の写真が残っているのです。一枚目は多数の遊女が水面に浮かんでいます。水面が見えないほどの死体がひしめき合っています。その池の回りに男達が”かけや”(火消しが持つもので、竹竿の先に引っかけ金具の付いたもの)を持って居る図です。次の写真はかけやで遊女を引き上げています。説明文では引き上げても引き上げても、水中から遊女が浮き上がってきて、いつまで引き上げても最初の時と変わらなかった、と言います。この様な記事や写真はどうしても”落語”としては載せる事が出来ません。歴史の重大な一場面でしょうが、割愛する事になります。

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 がらっと変わって「くしゃみ講釈」では、唐辛子と胡椒の粉を燃やしてかぎ分けて報告しようとしましたが、女房が「止めてくれ」と懇願するので実験はお預けのままです。ですから、八百屋お七から話が広がって江戸の火事にまで広がっていきましたし、「五貫裁き」では江戸の通貨制度まで思わず話が弾んでしまいました。

 舞台の多くは当然下町に集中します。その中でも多いのが、隅田川周辺の吾妻橋・蔵前・両国、永代橋、浅草・浅草寺、吉原、上野周辺等でしょう。浅草寺には噺のたびに何回となく訪れていますが、これからも行かなくてはいけない噺がつかえています。

 これからも本編『落語の舞台を歩く』へ足(?)をお運び下さい。また、機会があったら、裏話の続きでもお話ししましょう。

(この項ここまで)



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