(41) 2002.08.08 ■ボクらの追悼・小さん師匠(3)【二世代下からの体験的「小さん師」試論(笑)】凡平
*凡平(ぼんぺい) ◎芸が時代を超える、って言われても… 若手噺家に話を聞いたとき、「柳家の芸」という言葉を聞くことがあった。長年受け継がれた伝統という含みもあるが、その言葉を発するとき、彼らと聞き手の頭には、紛れもなく「小さん師」のことが浮かんでいる。「古今亭」「三遊亭の芸」と言ったときとニュアンスがちょっと違うのだ。 僕は、本当はそういう“血統”ネタにはあまり興味がないのだが、これが示すひとつの意味は、小さん師はそれほど長生きしてしまった、ってことだろう。小さん師はそれ以前の「柳家」を一人で21世紀まで背負って運んでくれた人、なのである。 芸についてよく、いいものは時代を超えるというが、だからといっていつまでも変わらぬ社会的価値をもつという保証はない。伝承芸能であっても時代に左右されるのは当たり前。“芸は世につれ、世は芸につれ”。中でも笑いを中核とする落語が「人の共感」をベースにしている以上、落語はその時代に存在する(した)ことにいちばんの意味がある、と思う。僕が、昔の名人の「芸の質」を今の基準で論じることにあまり興味がないのはそのためだ(芸能史的・文献的にはもちろん関心がある。僕もマニアだから)。 世代も同様に“超えない”。噺家だけが歳をとるのではなく、観る側も歳をとっていく。その世代間の関係が、落語の見方にも影響を与える。僕からみると、二・二六事件を肌で体験した小さん師は、自分の時代に存在するいちばん「年長の芸人」だ。いま(まで)目の前で生きてきた小さんが、当時の呼吸を知っている小さんが、60年以上後の21世紀に、50歳年下の僕の目の前で語っている。僕が体験できたのは、そのことだけだ。いま60歳の人にはまた、ぜんぜん違った小さんが体験されていたことだろう。 ◎芸歴70年の名人が去った本当の意味 小さん師の魅力が、人柄、人格で語られる片付けられることにちょっと不満だ。「高座で座ってくれるだけでいい」論とか、「晩年の小さんを今が見時、と通いつめた」という追悼文をみるにつけ、強い違和感、あるいは反発を感じてしまう。晩年の小さん師をいいおじいちゃん像で捉え、ほほえましく見つめる、というのはなんか違う。まぁ、いちばん最近まで見ていた「おじいちゃんの小さん師」しかアタマにないのも、仕方のないことだけど。ただ、落語は50年、60年という息の長い芸。ある芸人の死後に、一人の「芸」を生涯のどの時点で捉えるかという問題もあるはずだ。 考えてみると、小さん師は僕が好んで聞いた噺家としてはじめて、円熟の時代、最晩年の芸の“枯れ”そして“衰え”、“死”に至る過程を全部体験した人だった。だから、六代目圓生の、八代目文楽の、あるいは五代目志ん生の死に直面してきて、そういうことに“慣れていた”人だけが、ある意味で冷静に枯れた芸に向かえ、冷徹の芸人の衰えを捉えることができ、晩年の小さんの芸を「楽しめた」のかもしれない。 その一方で、ここ数年の小さん師に対して、≪笑わせようとかうまく演ろうとかいう、自分の芸に対する「下心」がない≫という評価がある。その通り、僕にも見える。芸歴ほぼ70年、これは現代としては気が遠くなるほどの長さだ。噺家は50歳でも若手と言われる、とよく自嘲する。確かに長い歳月をへて身につけた話芸の説得力には、圧倒的なものがある。人間性を磨くこと、修行の年月を積み重ねることは、落語に、確かに深い意味をもつ。 じゃぁ、志ん朝、小さんが死んでその下に大きな空白ができた今、昇太師が喬太郎師が三太楼師が、70歳の年寄りになるまで「いい芸」は待たなきゃいけないのか。 それは、ごめんだ。 最高齢の噺家がひとりこの世を去ったことで、少なくとも(無責任な聞き手である)僕らは、それぞれの年代の芸について見直す機会を得たのではないか。先に書いたことにつながるが、「昭和の名人」はもう存在しないとか、志ん朝の死によって本当の噺家はいなくなったとか、そう嘆くことはジジイたちに任せて、各世代の現役の芸(たとえ芸歴5年でも、20年でも)に目を向けたい、と思う。 小さん師は初めからおじいちゃんだったわけではない。≪30代から50年近くトップを走り続けある境地に達した≫小さん師の出発点は、今僕の目の前にいる若手噺家と同様の兄ちゃんだったのだから。 ◎なぜか浮かぶのは小さん落語の断片ばかり 小さん師の芸で思い浮かべるのは、根多全体の形ではなくその断片だ。「柳家」のお家芸である長屋噺、滑稽噺は実にくだらない。意味がない。そういうたわいない根多を演じるなかでところどころで見せる表情が楽しみで、小さん師の落語を見る(多くは50〜70代ごろのビデオ録画だ)。たとえば……
ほかにも「大山詣り」「にらみ返し」「試し酒」で見せる喜怒哀楽の表情の断片…。 そうした細かいパーツに目が(耳が)いくためには、その前提としてよほど全体像がきっちり伝わっていなければならない。落語の話芸をほめるとき、筋展開の組み立て(構成力)や語りの巧みさ(表現力)に言及されることが多いが、そこで「うまい」と思わせる程度ではまだまだ。それに気づかぬくらいの自然体。それが、小さん師が希求し体現していた芸のレベルなのだろう。生前師が語っていた「自然に、なんでもないように演じることが大切」「芸は人なり」という言葉がここにつながってくる。 ◎小さん師の部分部分を引き継ぐ者 人間国宝・柳家小さんは落語界全体の宝であり、シンボル的存在だった。もちろんそのことと何の関係もなく、小さんの弟子=柳家一門はこのところずっと勢いがある。もともと寄席出演が多いさん喬、権太楼という(落語界の言い方では)中堅クラスがしっかり寄席に客を集めて、いよいよ実力・人気ともに堂々たる爛熟期を迎え、小三治師が次なるシンボルとなるべく一つ上のステップに足を掛けている。 その一方、30代以下の“若手”が活発に動いており、ファンの注目を集めている。年代的に旬の奴らがたまたま今に集中したためだろうが、多彩な顔ぶれがいて飽きさせない。たとえば…
彼らのいずれからも、その高座に接するとき何かの拍子で「小さん」の顔がちらっと見えることがある。それを出せれば立派な「小さんの芸を引き継ぐ者」。いろいろな個性と可能性をもつ芸人たちを見るのは楽しい。 ◎そしてこれから。何もない荒野をあっけらかんと歩く覚悟! 小さん師というシンボルが失われたことは、もう一つ、後進の芸人たちが「帰る場所」を喪くしたという意味をもつ。柳家小さんは、古典落語を代表する存在として、幾多の「昭和の名人」が去った後も、一人でその位置を守り続けていたから。若いモンが末端の小枝で、古典世界をいじくってみたり、アンチ古典という視点から新機軸に挑戦したりといった芸の冒険(=寄り道)ができたのは、反発・否定する対象としての「古典落語」の太い幹があったからだ、と芸人たちは口にする。後進の喪失感は、外部の者(特に若い僕ら)には計り知れないものがある。 でも同時に、ようやく「過去」を客観視し、目前の問題(自分たちの落語)に立ち向かえるためのチャンスが回ってきた、と捉える人もいるはずだ。 「あまりにも素晴らしかった時代」の威光を前に、その時代への敬意や憧憬だけを頼りに落語に向かっている芸人(およびそのファン)たちは、結局、何十年にもわたって、じわじわと「今(その時代)の落語」を蝕み続けてきたとは言えないか。落語の世界はずっと前から、志ん朝師や小さん師がという「オアシス」を残して、全く顧みる人のいない砂漠だったのではないか。「戻る場所」を確保しつつ小さな冒険を続けてきた芸人も、自分らが体験したり空想した古き良き時代の古典をいつまでも追い求めてきた芸人も、それを自覚するべきだと思う。 《帰れる場所》がすでに喪かったことにようやく気づいた21世紀初頭の落語家は、古くさくなって見向きもされない落語の残がいやら、毎日テレビで垂れ流される安直な放送やら、昭和黄金期を知る人たちの怨念やら、文学やら芝居やらPS2やらインターネットやら映画やら、いま自分の足元や周囲に転がっている要素を拾い集めて、自分たちの手でこれからの落語を作るしかない。黙っていても嘆いても、ただ道はどんどん狭まるばかりだ。 甘美な懐かしさとちょっとの後ろめたさと安堵感がない交ぜになった、古い落語への郷愁を胸にしまい、きっと前を見据えて、道なき道を踏みしめて行くしかない。 次代の落語ファンたちは、そういう努力にこそ目を向けて、新しい可能性に期待するだろう。 伝統芸の落語は死なない、何度でも生き返る。その訳は、落語の中心には世の中の移り変わりに沿った「時代の共感」をつなげて作る「笑い」があるから。一人で演じる一種のお芝居。その中に江戸時代も、宇宙空間も、サラリーマン社会も、自然界も、神様の世界もみんな包含して、周りとの違和感と共感との間を縫いながら生み出される、じんわり湧き出てくる笑い。それをリードしつづけてきたのが小さん師である。このことをキモに銘じておきたい。そして、何にも知らない人が初めて触れたとき、なるほど、と納得させる潜在力を、今の落語は絶対に備えていることを。
落語協会会員紹介サイトより つづく |
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