大江戸演芸捜査網
〜楽屋口と客席の間で〜

(39) 2002.07.08 ■ボクらの追悼・小さん師匠(2)


【私が落語にとりつかれた理由】

小田部雄芳

*小田部雄芳(こたべ・かつよし)
落語をこよなく愛する一ライター。主にビジネス誌や経済誌で執筆しているが、現在落語を「仕事」にすることに奮闘中。
−−> 「葛飾瓦版」

末広亭での高座姿

 今はもうどこかへ行ってしまったが、十数年前まで、実家の私の部屋には、ある「紙」が大事に貼ってあった。忘れもしない、先代の柳家正楽師匠に切ってもらった、「小さん師匠の高座姿」だった。確か1981年の2月の日曜日、新宿の末広亭で、どうしても欲しくて、大きな声で注文したのだった。

 そのころ私は高校生だった。周りの友達が車やバイク、音楽に夢中になっていたのに、私はひたすら落語を聞いていた。どう見ても「変な奴、おかしな奴」だった。それでもよかった。何せ、落語が好きで好きでたまらなかったし、高校を卒業したらすぐにでも誰かに弟子入りしようと真剣に考えていたからだ。しかし、しょせんは田舎の高校生。落語を生で見るなどという機会は全くない。それまで東京に行った経験もごくわずかである。「東京で生の落語が見たい、寄席に行って見たい」それが高校生の私の夢だった。

 そしてどうしても生で見たい落語家が3人いた。当時売り出し中の春風亭小朝、落語界のサラブレッドである古今亭志ん朝、そして、後に人間国宝となる柳家小さんだった。

 その夢の第一歩がかなったのが高校1年の冬。確か12月に入ってからだったと思うが、私が自ら学校に作った落語研究会の顧問を引き受けてくれた先生が、わざわざ上野の鈴本に連れていってくれたのだ。「ぴあ」などどいうものはまだ普及していないし、「東京かわら版」の存在も知らない。誰が出ているか全く知らず、とにかく「寄席に行く」ことが第一目的だった。

 幸いこの時に、第一のあこがれであった小朝を見られた。ネタは「強情灸」だった。ちなみにこのときのヒザが春日三球・照代、トリが今の柳家つば女で、ネタは「掛け取り」だったはずだ。

 ここで寄席を初めて体験した私は、「今度は自分一人で新宿の末広亭に行く」といって、その2か月後に東京に出かけて行った。初めて降りた新宿。右も左もわからずに、あっちで迷い、こっちをさまよって、1時間以上は歩き回っただろう、ようやく末広亭の前にたどり着いたときは、全身の力が抜けたのを今でも覚えている。その前に出ている看板は、何とも鮮やかだった。あこがれの地にようやくたどり着いたという達成感もつかの間、その看板に何と「小さん」の文字を発見し、涙があふれてきた。

 末広亭の中に入ったとき、何ともいえない空気に愕然とした。当時もすでに「寄席には人がいない」と言われていた。いつ行っても寄席はゆっくり座れるところだと思っていた。しかし、なぜかその日は超満員、私の座れる場所はない。しかたないので客席の後ろのほうで立つことにした。人の頭がじゃまで、ろくに高座は見えなかったような気がする。すると、どういうわけか末広の係員のおばちゃん(おねえちゃんか)が、大勢立っている人の中から私を選んで、「あそこの補助席が開いてるから座りな」と手をとって誘導してくれたのだ。上手側の前から三列目ぐらいの通路に出したパイプ椅子、そこに幸運にも座ることができた。

 この日の高座は、プログラムを全く無視した代演の嵐だったように思う。とにかく、私はプログラムを片手に一人一人を追っているのだが、今がどこまで来ているのか、次に誰が出てくるのかが全くわからなかった。とにかく、仲入りの前に小さんとかいてあるので、小さんだけは必ず出て欲しいと願っていた。そして、先代の正楽が出たときに、その思いが募って紙を注文したのである。

 「そろそろ中ドリだろう」と思ったころ、聞き覚えのある出囃子がなり、小さんが登場した。もうそれだけで満足だった。そして、小朝の時と同じ、「強情灸」を演じ出した。これが、とにかく面白かった。小朝のものとはかなり演出が違う。私の知っている「強情灸」ではなかったが、顔が真っ赤になるあの姿だけは、今だに忘れられない。大満足して、その高座が終わると、さっさと末広亭を後にした。まだ昼席の中トリであるのに、何せ遠方から来ているので、帰りの時間が気になる。それだけ見れば、もうこの日は思い残すことはないと、5時半ごろに上野駅発の特急列車に乗っていた。正楽師匠に切ってもらった紙は、キオスクで買った雑誌の間に丁寧にはさんで持って帰った。

じっと聞かせる力が真髄

 かなり長くなったが、これが私の「小さん体験」の原点である。その後、小さんも含め、志ん朝や小朝の高座も何度となく見る機会を得たが、この時の満足感、感激があればこそ、私は落語というものに積極的になったのだ。

 田舎の一介の高校生にそれだけの体験を与えられたのは、小さんに何があったからなのだろうか。私はいったい、何にそんなに感激したのか。小さんが亡くなった今となってもその答えはわからない。腹の底からおかしかったのは事実である。ただそのおかしさ、面白さとは、今のテレビのバラエティー番組で見ることができる、「空しい」おかしさではない。確かにバカバカしいのであるが、笑いの神経とは違う、別の細胞までをも刺激する何かがあるのだ。空腹なのに、見た後に満腹感を得たような錯覚に陥っている、とでも言ったらいいだろうか。いや、違うかもしれない……とにかく、「面白おかしい」という一言ではすまない何かを与えられたのだ。

 今に残っているCDやビデオをじっくり鑑賞して見ると、決して小さんの落語のテンポは、志ん朝のような「流れる」うまさはない。粋ともちょっと違うし、じっとして聞いていなければ、今話しているのが誰の台詞だったかわからなくなってしまうくらいに、単調で、平坦だともいえる。ところが、それがとてつもなく面白い結果を生む。「長者番付」「試し酒」「笠碁」「粗忽の使者」「粗忽長屋」「二十四孝」「親子酒」と、どれもが絶品で、小さん以降にこれらのネタで小さんを超すものに私は未だ出会っていない。そして、志ん朝や小朝の落語は、「何かをしながら」聞いていることが多いのに対し、小さんの場合はじっと集中して聞いている。というのも、先ほど言ったように、単調で平坦であるからだ。それで思うのだが、小さん落語の真髄とは、客席にいる以外の客、つまりはテレビやラジオの向こうの者を、だまって自分の方に振りむかせ、集中させられることではないのだろうか。たまたまつけていたラジオから、ふと手にとって何気なく再生したテープから、小さんの声が流れてくると、とりあえず今やっている事の手を止めて「お、これは聞かなきゃならない」と、姿勢を正してしまうのだ、自然と。こんなことができる噺家が、他にいるのだろうか。

 つまり私は、あの末広亭の高座で、たとえ、噺の中味がどんなにバカバカしくても、こっちがきちんとした姿勢で聞く、集中して、じっとして、噺の中味を隅々まで味わう、そうすれば落語は思った以上の、2倍も3倍も楽しく感じられるものだ、ということを小さんに教えられたような気がするのだ。

 そういえば最近誰かが落語についてこんな定義をしていた。「バカバカしいことを真面目に話すこと」。確かにそうなのである。それは演じ手だけでなく、客にとってもいえることだ。「そのばかばかしいけど真面目に話していることを、じっと集中して真面目に聞くと、なおさら面白い」ということだろう。

 さて果たして、今後、これだけのことを一介の高校生に体験させる噺家が出るかどうか、大いに注目される。理屈で話しかけるのではなく、単に落語本題の芸の部分でそれが出来る人が……。

 私には、小さんの死は非常にショックで悲しい出来事であったが、これで全てが終わったとは感じていない。これによって、大いに活躍の場を与えられた者たちがいるはずだ。

 「やっぱり、小さんが死んだからもうダメだね」と言われてほしくない。小さんが私にしてくれたことを、他の噺家が別の誰かにどんどんやってくれるだろう。これからが、本当の意味で、落語が面白くなる時代だと、信じてやまない。

つづく



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