(76) 2006.2.28 ■都笑亭からの眺め河内家るぱん 現在は「落語ブーム」ということですが、自分の知っている中で一番のブームは、昭和40年代後半の桂三枝・笑福亭仁鶴が活躍したあの頃です。それに比べたら、現在のはブームとは感じないし、あの時ほどのパワーは無いでしょう。だいたい、ベストヒット皆無の音楽界を見ても判るように、今は種々雑多、いろいろな選択が出来、万人が好むようなものは出にくい時代ではないでしょうか。そんな中で「落語がブーム」などと言われても、自分には全く関係ないし、関心もありません。ブームが来ようが来よまいが、自分の中の落語は、なんら変わりがないからです。そんな中で、私の自己紹介と現在のホームグランドである「都笑亭(とわいらいとてい)」について、書かせて頂きます。 まず、自己紹介から、昭和32年大阪で生まれ、小さい頃よりもっぱらテレビで、落語・漫才を聞き、小学生の時に深夜放送(ラジオ)、桂三枝の(初代)ヤングタウンにハマッたのが「落語家」というものを認知した最初でした。その間、学年末の茶話会などで友達と組んで漫才のようなことをしたこともありましたが、国立奈良高専に入学すると、河乃源伍郎創部の落研に入り、本格的にのめりこむことになります。この落研は、学内の活動とともに大阪では、社会人落語サークルである「小素人連」に参加しており、大阪・太融寺で「どしろうと寄席」をホームグランドに活動しておりました。平成4年に転勤で東京へ。平成6年、江東区豊洲で「都笑亭(Twilight-Tei)」を立ち上げ、現在に至る。 「都笑亭」は、豊洲という陸の孤島のような場所に「寄席を作ろう」と会社の仲間に手伝ってもらって始めた。お手本は、「どしろうと寄席」。都笑亭のコンセプトは、 ○ 平日の夜 素人の会でありながら、500円のチケットを作って販売している、第1の理由は、集客のため。「どしろうと寄席」では、ながく「カンパ」という形で会を続けてきた。これが年1回程度の会であれば、それでも良いが年5回もやる会では、「今回、行けないけど、次には必ず行くから…」と、客数減になってしまう。しかし、たとえ500円でも払って、チケットを買えば、自分が行けなければ、誰かに「チケットがあるんやけど、行かない?」と勧めてくれるので、客数減にはならない。 2つ目の理由は、チケットを作り、販売することが、スタッフの「寄席ごっこ」の道具になるのである。東京という全く知らない土地で、ひとりで寄席を運営するのは至難のワザ。仲間を集めても、1〜2回は開けても継続するのは、難しい。そこで、チケットを刷り、販売することによって、みんなで寄席ごっこの始まりとなり、結束を固めることが出来る。そんなわけで都笑亭は素人の会にはめずらしく演るのは、私ひとりで残りはスタッフ専門の会として始まった。おかげさまで赤字にはならず、ほぼ毎年、「あしなが育英会」に寄付させて頂いている。 源伍郎がよく言っていた「素人の定席」。それが大阪のどしろうと寄席であり、都笑亭もこれに続いている。 |
|
![]() |
![]() |