(50) 2002.12.14 ■「落語とWeb、そして私(4)」「わせだ寄席の記録〜早稲田大学落語研究会ウェブサイト〜」 中島 求(なかじま もとむ) はじめまして、中島と申します。早稲田大学落語研究会のサーバ管理者をやってます。 なんでそんな人間がこんな所に雑文を書いているのかと。なんでも、落研ウェブサイトを見てる人がいて、その人が「おもしろいコンテンツがあるよ」なんてとりばかま氏にメールしたらしいんです。世の中、わからないもんですね。というのは、あのウェブサイトには画像はバナーと背景しか無いという。とりばかま氏の原稿依頼メールに「テキストコンテンツ中心の見やすいサイトだと思いました」と書かれたという。そんなサイトの何処に魅かれるコンテンツが…と作り手の私自身が思ってました。でもいるんですね。見てる人が。 その人が見てたコンテンツというのが、「わせだ寄席の記録」です。これは何かと言いますと、「わせだ寄席」の記録です。「わせだ寄席」というのは何かと言いますと、当会が昭和29年(1954年)から催している落語会の事です。昔は「落語研究会」と称していましたが、当会創立10周年を記念して「わせだ寄席」と名乗るようになりました。ちょっと当時の番組を見てみましょう。第1回わせだ寄席、時は昭和34年5月19日。ハナから順に徳川夢声、林家三平(伴奏:小倉義雄)、柳家小さん、柳家亀松、古今亭志ん生、コロムビアトップ・ライト、柳沢真一・若水ヤエ子・スイングボーイズ、楳茂都梅治。う〜ん、お腹いっぱい。 さてさて時代は一気に下りまして、時は平成14年11月30日。第72回わせだ寄席。番組を見てみましょう。ハナから順に柳家三太楼、柳家喬太郎、立川志らく、仲入りを狭んで神田山陽、三増紋也・れ紋、柳家権太楼。大隈小講堂にて木戸無料。定員282席の会場に500人強もいらっしゃいました。みなさまご来場ありがとうございました。ちなみに私は場内アナウンス兼マイク兼ブザー兼引き幕担当でした。お気付きになりましたでしょうか。 なぜこの記録をサイトで公開するようになったか? 大層な思想的背景とか哲学的苦悩とかは一切ありません。熊さん八っつあん並に単純な話です。現在は某大手電機メーカ社員の某OB氏が研修中のある日、「一日かけてウェブページを書け」との課題が出ました。そこで何を思ったのか某OB氏は当時一太郎文書になっていたわせだ寄席の記録をHTML化しようと思い付きました。某OB氏曰く「配属先の人が、私に会う前にこのページを見て、『大変だ、引きこもりみたいな人がくる』と心配したそうです。」そしてある日、何を思ったのか某OB氏は新歓に出没しました。そしてそのHTMLファイルをフロッピーディスクにて私に手渡しました。せっかくだからアップロードしました。おしまい。 これだけだとなんですな。せっかくだから「わせだ寄席」に関するいきさつも書きましょうか。 まずなぜこんな会をやるようになったのか? それは当会の設立趣旨と深い関係があります。早稲田大学落語研究会が設立されたのは戦後まもなくの昭和23年。創立メンバーは、小沢昭一・加藤武・大西信行。豪華メンバーですな。創立まもなくの頃の活動形態は小沢昭一著「私は河原乞食・考」[1]に詳しいので、重要な部分だけ引用します。
「文学部地下の部室に、当時古典派の新進気鋭、桂小竹さん(小金治)を招んで、汚ない机の上に座らせて、覚えているだけの噺をみんな演ってもらたり、大隈小講堂に師匠連を呼んで、何度か『鑑賞会』を開いた。ほんのオ車代しか出なかったが、大家がイヤな顔もせず来てくれて、いい『顔ヅケ』が出来た…(中略)…『鑑賞会』は、たんに落語や講談の羅列ではなくて、正岡容『下座音楽解説』とか、木村松太郎『浪曲概論』などをまじえたりした。」([1],pp341-342) お解り頂けましたでしょうか。つまり当会は、観賞するという活動が主体なのです。そしてなぜ大看板を呼べるのか。それには、当時の時代背景が深い関係を持ってます。当時、噺家等の芸人の社会的地位はそれはそれは低いものでした。当会などは、創立時に「最高学府に学ぶものが落語なぞを研究するとは何事か!」という世間様を恐れ、「寄席文化研究会」を名乗っていたぐらいでした。まだ「河原乞食」なる言葉が生きていた時代ですね。そして学生、特に大学生の地位は高いものでした。「学士様」なる言葉が生きていた時代です。噺家さん達は、「大学で芸を見せて下さい」という学生達のお願いを快く承諾して下さいました。こうして「鑑賞会」という活動がはじまりました。「鑑賞会」は噺家さんを一人招き、会員のみにたっぷりと2-3席演じる、というものです。 この「寄席文化研究会」は2-3年で後が続かずにつぶれます。しかし、そうこうしている内に、戦後の落語ブームが訪れます。当会も昭和28年に第三次落語研究会として復活し、堂々と「落語研究会」を名乗るようになります。部室を長岡屋さんという蕎麦屋さんに移し、「鑑賞会」もそこを会場として復活します。そして当初は内輪でじっくりと見ていた芸も、学生に見せようという風になりました。そこで複数の噺家さんを呼び、大隈講堂で木戸銭をとって寄席形式で落語を見せる「落語研究会」という会がはじまりました。「鑑賞会」の蓄積があり、大概の噺家さんとつながりが出来ていたので出演交渉はすんなりとまとまります。また、当時、顧問の暉峻康隆教授が柳家小さん師と飲み友達だったりといろいろなつてがあり、小さんを呼ぶ会であれば弟子の談志(当時小ゑん)も呼べる、と芋蔓式につてが増えていきました。これが前述の経緯で「わせだ寄席」となります。 そして時代は下り、学生運動や落語ブームの終焉などの社会変化が訪れ、「わせだ寄席」も揉まれてゆくことになりますが、その辺は長くなるのでサクっと割愛します。詳しい事はウェブサイトの「わせだ寄席の記録」をご覧下さい。現在では、大隈講堂で無料興行と形式こそ変わりましたが、「学生へ良質の芸を見せる」という趣旨は変わらずに続けています。 実は「わせだ寄席」の記録は長らくまとまっていませんでした。そこで数年前からまとめようとの気運が高まり、当会機関誌「わせだ寄席」に残っている記録などからだんだんと記録がまとまってきました。そして少しずつ穴が埋まっていきました。現時点での成果物がウェブサイトに掲載してある「わせだ寄席の記録」です。しかしながら、現在も不完全です。「わせだ寄席の記録」にもところどころ演題不明や出演者不明の個所があります。特に創立間も無い頃の記録が不完全ですが、この時代を知る人々も減りつつあります。もしこの文章を御覧の方で当時の「わせだ寄席」を御存知の方、または当時の関係者をご存知の方は、お手数ですがwebmaster@waseda-rakugo.orgまでご一報頂ければ幸いです。
長々と説明してきましたが、最後に一言。
当会は常に存続の危機を迎えてます!新入生募集中です![1] 小沢昭一:「私は河原乞食・考」,初版,文春文庫175-1,株式会社文芸春秋,1978年4月30日.
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