小松杏里プロフィール

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小松杏里
【こまつ あんり/劇作家・演出家・月光舎主宰】
 ※月光舎は2007年現在、封印中につき、活動は行われていない

1957年2月4日、東京・渋谷生まれ。水瓶座・A型。

6歳まで文京区千石(当時は丸山町)に住み、7歳より世田谷区代沢に移る。以後、20数年、下北沢で青春時代を過ごす。

松竹の映画プロデューサーをしていた父親の影響もあり、中学時代から8ミリ映画の製作に明け暮れ、高校時代は年間200本以上の映画を観る。

1975年明治大学入学後、駿台演劇研究部・劇団螺船を経て、1976年に演劇舎螳螂を結成。80年代小劇場ブームの中で、美加理・大鷹明良・冬雁子・原幸子ら個性的な役者たちを擁し、独特の世界でカルト的人気を博す。以後、1988年の解散までの12年間、主宰として全公演36本の演出を行うと共に、13本のオリジナル戯曲と6本の構成台本、5本の脚色台本を執筆。

1989年より湘南江ノ島のアートスペース天文館[93年閉館]にて演劇ワークショップを開始。5期のワークショップを経て、ワークショップ参加者を中心に、1992年、演劇プロジェクト・月光舎を組織し、神奈川を拠点とする。月光舎では東京中心の演劇作りにこだわらず、北九州演劇祭やタイニイアリス・フェスティバルなどにも参加、また大阪・名古屋など地方での公演も多く、2002年5月には、アジア連続公演の第1弾として、韓国・ソウルでの公演を成功させ、9月には横浜で凱旋公演を行った。

1999年4月より、月光舎の活動と並行して、一般からの参加も出来る演劇ワークショップ・ARROW[anri reorient workshop]を開催し、ARROWでも、これまでに4回の公演と3回の発表会を行った。

また、2002年9月からは、神奈川県座間市でジュニア演劇ワークショップの講師を担当、12月からは、広島で演劇ワークショップグループH.ARROW[Hiroshima ARROW]の活動を開始した。※現在は、両活動とも休止している

代表作は、『銀幕迷宮(キネマ・ラビリンス)』『レプリカ』『莫』『眠れぬ夜のアリス』『ピカイア』『啼く月に思ふ』など。螳螂や月光舎以外にも、『バイオ・死の萬意』などの自主公演、『血は立ったまま眠っている』(ジァンジァン・プロデュース)、『月の兎』(天文館企画)、『毛皮のマリー』(演劇企画カルナヴァル)、『ちはやふる』(神奈川県青少年芸術劇場公演)など外部演出も多く、2002年10月に開催された韓国現代戯曲ドラマリーディングでは、チャン・ジン作『無駄骨』の演出も担当した。また、劇作家としても、シアター・バロックに『東京森林』を書き下ろしている。

演劇以外にも、TV(『日本ストリート物語』『TVムック・語学の旅』など)、ロックコンサート(オート・モッド、ゼルダ)などの構成や演出も手掛け、漫画編集者として、「ひさうちみやお」や「いしかわじゅん」らの単行本(けいせいコミックス)や少年向け雑誌(メディア・ワークス)の編集にも携わり、学研から発刊された子供向けシミュレーション・ゲームの原作も書いている。

また、2000年には、写真撮影も自ら行ったルポルタージュ『ニューハーフが決めた「私」らしい生き方』を書き下ろして出版し、翌年、それを原作にしたブロードバンド・ムービー『BE MY SELF』の監督・脚本・撮影も担当した。

著書に、『少女博物誌』(けいせい出版)[絶版]、『小松杏里・劇本』『莫/月の兎』『おとぎげき』(共に而立書房)、ルポ『ニューハーフが決めた「私」らしい生き方』(KKロングセラーズ)などがある。

また、代々木アニメーション学院・声優タレント科の創立2年目より、特別講師として、声優タレント、俳優の育成にもあたり、2003年からは代々木アニメーション学院・福岡校に赴任、常任の講師として3年間、福岡で過ごし、福岡の演劇界との交流も深めた。その成果として、2006年3月には、福岡・熊本・大分・佐賀で活躍する役者たちによって行われた、韓国現代戯曲ドラマリーディング『豚とオートバイ』(イ・マニ作)の演出を担当し、福岡の演劇界に一石を投じた。

2006年4月に地元・神奈川に戻り、代々木アニメーション学院・横浜校の講師として1年間勤務、現在は、2007年4月より開校したドワンゴ クリエイティブ スクール[DCS]・声優科の責任者として、声優タレント、俳優の育成にあたりながら、演劇情報発信サイト「週刊StagePower」にて、連載コラム『小松杏里の乾坤一滴』(毎週火曜日更新)を執筆している。


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