2003.5.25
NYの日本人俳優(16)

演出家と役者

 昨年の12月からこの5月までの6ヶ月間私は立て続けに芝居を3本やっている。一本目は現代の日本を代表する若手作家の作品を日本語で演じ、その時の演出家は日本人女性だった。二本目は日系アメリカ人作家のプレイをテキサス出身のアメリカ人女性が演出した。そして三本目はフューチャーリスティック/アポカリプティックな実験演劇的舞台で、演出と振り付けがゲイカップルの女性2人だ。私は6ヶ月の間3本の舞台すべて女性演出家と仕事をする事になった。これはまったくの偶然のことで今振り返って考えてみても“演出家が女性だったんだ”という感覚しかない。

 以前も何回か女性演出家と仕事をしたことはあるが、私自身は演出家が男性だろうと女性だろうと一向にかまわない。演出家が役者の私をどこまで理解してくれるか、そして役者の私が演出家を相手にどこまで自分をさらけ出す事ができるかで、自然とお互いのバランスがとれてくるからだ。ただたまにそのバランスがどうしてもうまくいかない事がある。そして今回の仕事は演出家とのバランスが不均衡のまま初日を迎えてしまった。

 むかしある人に言われたことがある。役者はマゾヒストでなければできない。演劇はお金にもならないし、定職にも就かずアルバイトで食っていく切り詰めた生活は、まさしく自ら過酷な生活を望んでいるようなものだ。それに稽古の期間も演出家に指図されるマゾヒズム的だからだと。まぁそう言われてみればその通りなのかもしれないし、またそうでなければ役者なんかやっていけないと思う。演劇は本来金儲けにはまったく無関係な世界で、演劇で金儲けを考える事自体演劇の本質を無視している事になる。だから役者は演劇をやるという事にお金以上の何かを覚える事で演劇の魅力を感じるのであって、その何かを稽古のあいだ創造し舞台の上で発揮してオーディアンスとの一体感を経験することにオーガズムを感じるのかもしれない。だから私は演劇というものがいかにフラジァイルなアートで、オーディアンスという相手がいてこそ成り立つ“肉体接触の無いSEX”と同じ感覚のようなものではないかと思う。

 だから我々演劇人はその為だけの追及を求めて、演劇というものからいつまでも抜け出せないでいるのかもしれない。しかしその追求が役者と演出家の間で消滅したとき、芸術というものも生まれないのではないかと私は思う。

 人間というのは不思議なもので実に便利にできているクリチャーだと思う。そのような状況になると何か別の代償を求める。そしてその代表的なのがお金である。お金で自分の心の中のバランスを保とうとするのかもしれない。でもそれは決して悪い事でもなければ、むしろ役者の心のバランスを保つのに必要なことだと私は思う。それはそれでいいのだ。がもしその両方の代償“アーティスティック”と“お金”も得られなかったとき、役者はどうすればいいのだろうか? 演劇をやる意味をどこに見出せばいいのか? そんなものはどこにも見つけ出す事はできないのではないか? そしてだだ役者の心の中に妥協というはっきりしないわだかまりのようなものだけが、どこかで影をひそめることになるのではないだろうか?

 私は自分が信念を持って演じている演劇に関して、演出家と衝突はしても妥協というか、わだかまりというか心の中にしこりを潜めたまま舞台でオーディアンスとの“肉体接触の無いSEX”はできれば避けたい。

(つづく)


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