2008年10月第2週
さて、前回に続いてソウルの報告・第二弾をお送りするが、その前にちょっと訂正を。前々回、9月第2週の乾坤で、6月に福岡に行ったのを「1年ぶり」と書いたが、去年の12月にも行っていたので、「半年ぶり」の間違いだった。やはり、間を空けて、思い出しながら書くと結構忘れてることもあって、間違ったりする。すいません。ま、福岡は11月にも『豚とオートバイ』の音楽の打ち合わせで行くし、半年に1回は行きたい、いや、行くぞぉ! 韓国にも、1年に1回は行きたいなぁ! パスポートも今回の訪韓で3回目の更新をしたし、あと10年はすぐ行ける。というわけで、報告の続き。
9月24日、イン・ソウル二日目。朝食も、クマさん(翻訳家の熊谷さんのこと。以下、クマさんとする)お薦めのテンジャンチゲとスンドゥブチゲの店に行くことにする。旅館からは12〜3分ほど歩くが、朝の散歩と思えば苦じゃない。適度にお腹が空いて、その店「トゥッペギチプ」へ。店は混んでいて、ひっきりなしに客が出入りする。出勤途中のサラリーマンやOLもいるし、老人や観光客もいる。人気の店なのだ。席について注文すると、入口の横の強火のガス台にグツグツ音を立てて乗っている鍋が、最後に卵が落とされて運ばれてくる。ボールに入って別に出てくるご飯は、そこに野菜やコチュジャンを入れてビビンパブにして食べる。キムチや野菜やご飯はお替わり自由。これで3500ウォン。吉牛並みの値段で、朝から大満足だ。
朝食の後、10時過ぎに李萬喜[イ・マニ]さんと連絡をとることになっているため、クマさんは先に旅館に戻り、他の4人は近くのタプコル公園や鍾路3街の商店街をブラブラしてから旅館に戻ることにする。
仁寺洞の入口のところにあるタプコル公園は、韓国が日本に植民地として支配されていた時に起きた「三・一独立運動」の発祥の地となったところで、韓国の抗日運動の拠点ともいえる場所である。反日の立看板が出ていたこともあるし、以前、その前を通りかかった時、酔った感じの年配の韓国人に、指を差されて日本人はどうのこうのと怒鳴られたこともある。そんな場所なのだが、中に入ると、賑やかで騒々しい街中に、こんな静かなところがあるのかと、気分を穏やかにしてくれる癒しの空間でもある。この日も、老人たちが朝の散歩や体操をしていた。奥の方には国宝の"円覚寺址十層石塔"という塔があり(今は強化ガラスで覆われているが)、昔はパゴダ公園とも呼ばれていた。そして、ああ、確かにここが抗日運動の拠点だったんだなと納得し、ショックを受けるのが、庭の壁面にズラーッと並んだ、1919年の独立運動の時に日本の官憲に抵抗する人々の姿を描いた12枚の銅版のレリーフである。ひとつひとつ見て回る度に心が痛む。私は韓国には10回以上行っているが、これまであまり、日韓の過去の歴史について触れたり、話したりする機会はなかった。目にする機会も。知り合った演劇人たちが避けてくれていたのかもしれない。しかし、日本がかつて韓国に対して行ってきた行為は、その加害者や被害者の意識の差こそあれ、紛れもない事実であるわけだし、目を背けるわけにはいかない。そういう歴史を展示している大韓民国独立記念館という博物館もある。だが、私はまだ行ったことがない。広島平和記念資料館を初めて訪れた時、原爆を歴史的事実として知ってはいても、その現実にショックを受けたように、日韓の歴史においても、まだまだ知っておかなければいけないことがたくさんあると思う。ぜひ今度行ってみよう。ちょっとまじめな話になってしまったが、韓国という国との交流にあたって、そういう思いだけはいつも持っていたいし、その上で、新たな関係を築いていきたいのだ。
タプコル公園を出た後、鍾路3街の商店街を歩きながら、お目当てのCD屋を探す。そこは卸問屋も兼ねたCD屋なので、普通の店より2〜3割安く買うことが出来るのだ。もちろんDVDもある。9時半からやっているというので探していたら、9時半前にすでに空いていた。「ソウルレコード」というベタな名前の店だ。店員の女の人も親切で、誰々の出た映画でタイトルはわからないんですけど、といっても探してくれる。とにかく大量のCDやDVDがあるのだが、この時はじっくり見ている時間がなかったので、長男のみやげの『春のワルツ』のサントラを2枚と、イ・マニさんが脚本を書いた、今、韓国で公開されて大ヒットしている映画『神機箭[シンギジョン]』のサントラを買った。そして、また改めて来ることにし、旅館に戻った。
イ・マニさんとは昼の1時に狎鴎亭[アックジョン]で会うことになったので、それまでの時間をどうするか話し合った結果、私と薙野さんとハンキンさんは、明洞[ミョンドン]に新しく出来た、実弾を撃てる射撃場に行き、妻はクマさんと一緒に明洞で買い物をすることにした。途中、6年前に月光舎でソウル公演をした倉庫劇場(三一路倉庫劇場と名前は変わったが、今もある)を訪ねたが、4年前に来た時からさらに周りの様子は変わっていたので驚いた。どんどんきれいになっている。特に、みんなで宿泊した東邦旅館[トンバンヨグァン]もなくなり、辺りはすっかり高層ビル街になっていて、唖然としてしまった。あのゴチャゴチャした路地裏の雰囲気が好きだったのだが、微塵のかけらもない。何年後かには、今回初めて泊まって気に入った、鍾路3街の路地裏の風景も消えてしまうのだろうか。
その後行った実弾射撃場は、「明洞実弾射撃場」といい、明洞の一角にある。2007年に出来たばかりだそうだ。知らなかったわけだ。日本では一般人は撃つことが出来ない実弾を、韓国で撃つのは、実は私は今回で3度目。ソウルからちょっと離れた場所にあったところ(今はなくなってしまったようだ)と釜山の海雲台[ヘウンデ]で1回ずつ。最初に韓国を訪れた頃に行った。8年前だ。しかし、あの感触は今でも覚えている。何より、これで人が殺せるんだ、これは人殺しの武器でもあるんだ、と実感したのがショックだった。まぁ、そう感じるのは実際に実弾を撃った後のことで、男の子、いや、男は、単純に銃を撃つのは好きなはずだ。我々の世代はテレビの影響もあると思う。今のテレビでは規制されているが、昔のテレビは、西部劇は当然ながら、ヒーロー物でもバンバン拳銃を撃っていたからなぁ。二丁拳銃を構えた子供の頃の写真も残っている。七色仮面だっけ。ま、今も射撃ゲームは人気があるし。
今回一緒に行った薙野さんもハンキンさんも、実弾を撃つのは初めてだという。果たしてどんな感想を持つだろうか。射撃場とはいっても、撃つ場所は防音隔離されていて、ビルの12階にある店に入ると、そこはホテルのロビーのような感じで、まず、ソファに座らされて、銃と料金の説明を受ける。私は以前、リボルバーもセミオートも撃ったことがあるが、今回はリボルバーの357マグナム・ルガーKGP141にした。薙野さんも357マグナムのセミオート(デザートイーグルだったと思う)、ハンキンさんは9mmのワルサーP38にした。ルパン三世の銃だ。
順番が来ると、射撃場に入る前に防弾チョッキを着させられ、大きな耳当てを付けられる。そう、音も大きいのだ。そして中に入り、銃を持たされ、両手で持つ持ち方を教わり、弾が装填され、いよいよ前方の的に向かって構える。銃は反動で落としたりしないように、構えるところの前の、左右に渡されたロープに繋いである。もちろん、撃つ時はフリーの状態になるが。そして、足を開いて腰を安定させ、撃鉄を起こし、引き金を引いて、撃つ! ドンッ! すごい反動だ。さすがマグナム。右手首から腕、そして肩にかけて、ズンッと響いてくる。弾は12発。次々撃っていると、段々撃鉄を起こす親指の力がなくなってくる。重いのだ。同時に、銃自体も重く感じるようになってくる。映画やテレビみたいに、連続して軽く撃つなんて考えられない。まぁ、モデルガンは本物と違って軽いし。リボルバーは6発装填なので、1回、弾を入れ替える。空の薬莢が熱い。そりゃそうだろう、火薬が爆発して発射されてるのだから。銃を構えてからの的の狙い方を教えてもらったが、なかなか真ん中には当たらない。撃った時の反動からか、どうも左上寄りになってしまう。何か癖があるのかな。たった12発だったが、撃ち終わった時には、何ともいえない疲労感が残った。やはり緊張していたのだろう。撃ち終わると、撃っている時には忘れていた痛みが肩に甦ってきた。遠くの的が運ばれて外され、外に出て点数が計算される。一応、12発とも丸い的の中に当たっていて、合計点は90点。以前やった時よりはよかったような気がする。初めての二人は終わって興奮している模様。点数はハンキンさんが86点で、薙野さんが94点と、一番年配の薙野さんがトップ。ハンキンさんに「キラー薙野」などという有難くない仇名を付けられてしまった(笑)。しかし、マグナムの反動は思いの外すごかった。まだ上にダーティーハリーの44マグナムがあるので、今度行った時は、ぜひそれを試してみたい。
その後、ミリオレ明洞の前でクマさんたちと合流し、地下鉄で狎鴎亭へ向かった。妻はクマさんにいろいろ説明されながら明洞を一緒に歩いたが、結局、買い物は出来なかったらしい。確かに、クマさんがのんびり歩いている図など想像出来ない(笑)。明洞では、妻も私もお気に入りだった明洞衣料がユニクロに変わっていたのにはがっかりした。ホントにどんどん変わる。
狎鴎亭は、ちょっとおしゃれな街で、私も行くのは初めてだ。とはいえ、街中を観ながら歩いている余裕はなく、駅前のCGV(複合映画施設)の前で、すぐ、イ・マニさんと再会した。4年ぶりだ。ハンキンさんは、イ・マニさんが意外なハプニングで来られなくなった福岡の『豚とオートバイ』リーディング公演の後、クマさんと一緒にソウルに来て会っている。薙野さんはもちろん初めてで、福岡公演のプロデューサーだと紹介し、歓迎された。軽く再会を喜んだ後、イ・マニさんが我々を食事に誘ってくれた。そこは、狎鴎亭に来るちょっとおしゃれな奥様たち(明らかに鍾路3街のおばちゃんたちとは違う)が集まる店で、後で、クマさんが知り合いの韓国人に聞いたところ、おいしいと評判の店ということだった。確かに、みんな美味しかった。本場の、大好きなケランチムも食べることが出来た。マツタケ入りのプルコギやらサバのチゲやらポッサム(茹でた豚肉)やら書き切れないぐらいいろんなものが出て来て、次の時間のこともあり、不覚にも残してしまった。韓国では残す方が礼儀なのだそうだが、小さい頃からの親の躾のせいで、どうも出された食べ物を残すと罪悪感を感じてしまうのだ。いや、単にもったいないという気持ちが大きかったのだが(笑)。おみやげの、私の大好きな日本酒「酔鯨」もイ・マニさんに渡すことが出来、食事をしながら(大好きなトンドン酒も飲みながら)、『豚とオートバイ』の話も出来た。ただ、残念なことに、イ・マニさんは、脚本を書いた映画『神機箭[シンギジョン]』が大ヒットした(何と、今現在、観客動員355万人を突破したという)おかげで、次の作品の準備が早まって忙しくなり、12月も日本に来る時間が取れなくなってしまったということが明らかになった。演出については、こんなにこの作品を愛してくれている小松先生の好きなようにやっていただいて構わない、といわれた。頑張らねば。
その後、お茶をしようと誘われ、近くのコーヒーショップのテラスでコーヒーとケーキを御馳走になった。そこで、偶然、イ・マニさんが脚本を書いた映画『僕が9歳だったころ』のユン・イノ監督(先日、自殺してしまったチェ・ジンシルの『マヨネーズ』といういい映画の監督でもある)に会った。この近辺には、映画関係の事務所が多くあるそうだ。『僕が9歳だったころ』は、韓国で公開された時にちょうどソウルで観て、その後、アジアフォーカス福岡国際映画祭でも観て、シンポジウムで来ていた監督にも会ったという話をしたら、とても喜んでくれた。福岡はいいところだといっていた。
イ・マニさんは多忙な中、貴重な時間を割いてくれ、いろいろな話をしてくれた。そして、『豚とオートバイ』の韓国公演を実現して、そこで観てもらえるように約束し、3時半に別れた。その後、薙野さんとハンキンさんは4時からの『青森の雨』の公演を観に大学路[テハンノ]へ(ハンキンさんは前日観た時、疲れててほとんど眠っていたので、もう一度観るために)、クマさんは二人を送った後、旅館へ戻り、私と妻は明洞と南大門市場へ買い物へと、それぞれ分かれた。そして、夜、鍾路3街の交差点にある映画館、団成社[タンソンサ]劇場の前で待ち合わせ、『神機箭[シンギジョン]』を観ることにした。
明洞は、初めてソウルに行った2000年から、ほぼその近辺を定宿にしていて(ニューオリエンタルホテル、メトロホテル、東邦旅館、鶏林荘旅館[ケリムジャンヨグァン])、ソウルの中で、一応、一番詳しい街だ。酔いどれて裏道も歩き回ったし、あっちこっちから夜中にタクシーで帰って来たりもした。公演をした倉庫劇場も明洞だ。しかし、久しぶりに訪れ、その変貌ぶりに驚くと共に、以前のようなおもしろさがないことを発見した。ミリオレ明洞の中も、しっかり見て回ったのだが、ファッションにしても、以前のように、日本にはないような、いわゆるトンガッタ服はまったくなく、どこにでもあるようなものばかりになっていた。他のいろいろな店にしてもそうだ。う〜ん、明洞はどうなってしまうのだろう。その点、まだ南大門市場の方は、変なものがいっぱいあった(笑)。とても日本じゃ着れないような派手な服もまだまだ売っている。日本では著作権の関係で有り得ない『スラムダンク』(今でも韓国で大人気なのだ)のキャラクターのTシャツもいろいろあり、バスケ少年の三男のおみやげに買って来た。次男のおみやげはおしゃれなキャップ。もちろん、みんな安い。しかも、値段を負かすことが出来る。南大門市場は広いので、何回か行っているが、おそらくまだ全部見て回っていない。まだまだ楽しめそうだ。
明洞と南大門で買い物をした後、一度、荷物を置きに旅館へ戻り、クマさんと一緒に団成社[タンソンサ]劇場に向かった。そして、薙野さん、ハンキンさんと落ち合い、『神機箭[シンギジョン]』を観た。映画は、私の大好きなチョン・ジェヨンが主演で、活劇仕立てで単純におもしろかったのだが、ヒロインの女優の演技がどうも苦手で、もうひとつ入り込めなかった。韓国映画で久しぶりの大作だし、観客動員も凄く、日本でも映画祭とかで公開されるかもしれないが、テポドンや原爆を暗示させるようなシーンがあるので、難しいかもしれない。クマさんは、それにかなり御立腹で、事と次第によっちゃイ・マニさんと決別するかもしれない、などと物騒なことをいっていた。ま、脚本と映画は違うし、商業映画は商業映画でお仕事なんだから、イデオロギー的なこととは関係ないと思うけど、と話したが。
映画を観た後、近くの食堂で、その日、イ・マニさんに会えて話も出来、今回の訪韓のメインの目的が達成出来たことを祝い、みんなでプデチゲ[部隊鍋]と韓国焼酎で乾杯して酔いどれた。こうして、朝から夜まで充実した二日目を過ごし、いよいよ翌日は最終日。これまたいろいろあり、特に最後には意外な話を聞いてショックも受けた三日目の、そして、帰国日の話は、次回。
ソウルから帰って来てからは、スクールの授業と『豚とオートバイ』の稽古で、特に何もなく、朝から夜まで多忙で充実した日々を過ごしている。12日の日曜には、何年ぶり、いや20年ぶりぐらいで、青森の劇団夜行館の芝居を観て来た。これがまた良かったのだが、その話はいずれまた。
(2008.10.15)