10月になって急に涼しく、どころじゃなく、寒くなった。まだ秋冬ものの整理がしっかり出来ていない。そのおかげでどうも風邪をひいた。頭痛と喉の痛み。といっても休んでいられないので頑張っている。しかし、「頑張る」というのはいくつぐらいまでやればいいのだろう。年を取ると頑張るのが億劫になってくると思うんだけど。まぁ、そうもいっていられないので、やれるうちはやるっきゃない。
9月の2回の連休は助かった。世間は3連休だったが私は土曜日に授業があるので、ただの連休。とはいえ、連休は久しぶりだったので、仕事部屋の大掃除が出来た。結構いらないものを処分した。いや、ホントはまだまだ捨ててしかるべきものがあるのだろうが、なかなか捨てられない。古い本や雑誌なんか、いつか高く売れるんじゃないだろうかというスケベ心もあって取ってある。いや、その理由だけじゃないけど。でも、実際は売れないんだよねぇ。古本はよほどのものじゃないと価値がないし。昔の映画のプログラムもいっぱいある。まぁ、たまに古い映画のDVDとか観る時、引っ張り出してきて見るからいいんだけど。あと、昔の『新劇』やテレビで放映された芝居を録画したVHSのビデオテープがズラーッと。さすがにβはほとんど処分した。螳螂の初期のビデオはみんなβなのだが、とりあえず取ってある。DVDに移している時間もないし、そのうち劣化して見れなくなっちゃうんだろうけど。
9月最後の連休の前、21日の金曜日の夜には、新大久保に韓国料理を食べに行った。前回書いた、駒澤大学駅前の“博多どかどか団”を紹介してくれた演劇ライターの上野紀子さん(「どんどん名前を出して宣伝して下さい」と許可をもらった)がやっているバスケットボール仲間の飲み会に参加させてもらったのだ。バスケットの方ももちろん興味があったが(一応、中学の時にちょこっとバスケットボール部にいたし、今は三男がやっていて、一緒に試合を観に行ったりしているので、今更ながらやってみたいという気は少しある)、一番の目的は上野さんとソウルの演劇の話をしたかったから。上野さんはシアターガイドにソウルの演劇情報を書いているのだ。実は、上野さんには直接会ったことはなかった。メールをもらって知り合ってから3年ぐらい経つのだが、韓国現代戯曲ドラマリーディングの会場に一緒にいたり、上野さんのブログや原稿を読ませてもらったりはしているのだが、会うのは今回が初めて。待ち合わせ場所の新大久保駅前に行くと、とにかく韓国人のグループが多く、ハングルが飛び交っている。こっちは上野さんの顔を知らなかったのだが、すぐ声を掛けてくれて合流出来た。そこにいたのは8人。何人かが遅れて来て、全部で12人ぐらいになるらしい。
行った場所は、明治通りの方に歩いていって右に曲がったところにある“おんどる”という店。明るくて、ソウルだったら大学路にある若者向きの店という感じ。韓国の若者たちと日本のサラリーマンやOLの集団が半々ぐらいで満員。金曜日の夜だからね。予約していた席に座り、さっそくコチュジャン豚の盛合せセットやいろいろなチヂミを注文する。私や上野さんは韓国料理は慣れっこだが、バスケ仲間は焼肉ぐらいで、本格的な韓国料理はあまり食べたことがないといっていた。しかし、コチュジャン豚やニラチヂミやジャガイモチヂミやキムチチーズチヂミが来ると、みんな「おいしい、おいしい」といって食べていた。私は上野さんの隣りで芝居の話などをしながら、香ばしい黒豆マッコルリをのんびり味わいながら食べていたが、遅れて来た人たちも負けじとチーズタッカルビやチーズトッポッキやチャプチェを注文して、みんなひたすら食う、食う! まぁ、おいしい肉を食べることが会の趣旨だったそうだからいいんだけどね(笑)。考えたら、福岡の時からいろいろおいしいものをたくさん食べに行ってるように思われるかもしれないけど、量はそれほど食べていないんだということが、改めてわかった。やはり年なんだな。若い人たちと大人数で食べに行くと、その注文する量にびっくりしていたもんなぁ。これからさらに、量より質、というか、あまりたくさんは食べられなくなっていくんだろうな。酒も昔ほど飲めなくなってきたし。
しかし、“おんどる”のコチュジャン豚はおいしかったぁ! チヂミも。そして、最後にみんなで分けて食べたパッピンスも(大きくて一人じゃ無理)。値段もリーズナブルだし、ぜひまた行って、黒豆マッコルリを味わいながらゆっくり食べたいもんだ。料理のおいしさに、上野さんとした芝居や韓国の話の内容は忘れてしまった(笑)。写真も撮り忘れたし(笑)。上野さんとはまた“博多どかどか団”辺りで、芝居や韓国の話をしながらのんびり飲みたい。そうそう、この時に聞いたのだが、私が演出した韓国現代戯曲ドラマリーディング『無駄骨』の翻訳者の青木さんとは交流があるそうなので、今度、青木さんの友人でもある熊谷さんも誘って一緒に飲みましょうという話はした。平田オリザの日韓共同制作の公演『その河をこえて、五月』に出演した小須田さんとも交流があるというし。おっと、もしかすると老体に鞭打ってバスケットの練習に参加するかも(笑)。上野さんは11月にソウルで行われるパク・トンハ主演のミュージカルを観に行くJTBのツアーに案内役として同行し、韓国芝居講座も行うそうなので、観に行きたい方はぜひどうぞ。私は翌週福岡に行くし、そう休んでもいられないので残念ながら行けないけど。
さて、先週の続きというか、9月に観た残りの舞台、“流山児★事務所”の『オッペケペ』と、3年前の福岡時代の教え子たちが東京に出て来て作った、演劇ユニット“Fire Works”の旗上げ公演『オーマイゴッド!』についてまとめておこう。
『オッペケペ』を観に行ったのは14日の金曜ソワレ、場所はベニサン・ピット。流山児★事務所の芝居では、去年の10月、ここで『狂人教育』を観た。あれはよかった! まぁ、何回も再演をしている作品ということもあるのだろうが、寺山さんの言葉と役者たちの身体とが、シンプルながらも魅力的な舞台装置のベニサン・ピットの空間で妖しい世界を創り出していた。いや、その後に観た『リターン』もよかったし、さすが流山児祥、プロデューサーとしての精力的な活動だけじゃなく、近年は演出家としても魅せてくれるなぁと長年の付き合いながら思ったものだが、今回の『オッペケペ』は、ちょっと整理しきれていないんじゃないかなという感じがした。上演時間は休憩なしの2時間24分。それ自体は長いという感じはしなかったのだが、とにかくバタバタバタと流れている感じで進み、いい台詞はいっぱいあるのだが、それが心に響いてこなかったのが残念だ。流山児さんのブログを読むと、この日の公演は「すこし慣れた空気が漂いだした、やばい」と書いてある。正直な人だ(笑)。確かにそんな感じがした。まぁ、作品自体、大作の力作ではあるのだけど、逆にそのことが枷になってしまったような気がする。休憩を入れて3時間かけてたっぷり見せてくれてもよかったんじゃないだろうか。歌舞伎のように。そう、新劇じゃなく、流山児歌舞伎で観てみたい。芝居の部分はともかく(といっても、同じ芝居だから分けることもないのだが)、みんなの歌や踊りのシーンはすごくよかった。大衆のエネルギーを感じ、そこにこそ、この『オッペケペ』の魂が込められていると感じた。特にラストは鳥肌ものだった。44年前の作品が現代にも通じることを見せてくれた演出家・流山児祥の力量はやはりすごい。私とちょうど10歳違い。流山児さんに会うと、私も少なくともあと10年は「頑張る」をやらなくちゃ、という気にさせられる(笑)。
演劇ユニット“Fire Works”の『オーマイゴッド!』は、29日の土曜日に観に行った。その日は午後から学校で土曜クラスの2回目のステップアップオーディションがあり、それが6時過ぎまでかかり、あわてて西武新宿線の東長崎に向かった。幸い、てあとるらぽうというその劇場は駅から1分もかからない場所にあり、ギリギリ開演に間に合った。余談だが、この劇場は、上戸彩主演の途中で打ち切られたドラマ『下北サンデーズ』(私は見ていたが)の公演の収録が行われた劇場だ(ドラマの設定では下北のOFFOFFシアターだった)。みんなの記念写真が飾ってあった。
“Fire Works”というのは、福岡の代アニにいた時、しっかり2年間教えた最初の学生たち、卒業公演に『聖ミカエラ学園漂流記』をやった卒業生たちが、卒業後入った養成所を経て作った演劇ユニットで、これが旗上げ公演になる。主宰であり作・演出の中地健太郎は、1年生の時の学院祭で『未練』という作品を書いて演出もやり、この作品は、その翌年の1年生たちもやり、さらにその1年生たちは、主役のキャラクターを生かしてスピンオフ作品まで作ってしまった(原案は私だったが)。つまり、なかなかおもしろい脚本を書く才能はあるやつなのだ。この『オーマイゴッド!』も、日本を舞台に、架空の時代に行われている戦争を背景にした作品で、なかなかの力作だった。しかし、公演を観た後の飲み会で本人にも厳しくいってしまったのだが、やはり演出面での弱さが出てしまい、作品の深い掘り下げ方が足りなかったり(作・演出が同じ人間だとよくあることなのだが)、役者たちへの演出力が不足しているため、多くの役者たちが自己満足的なワンパターンの芝居になってしまったり、何より、脚本のおもしろさを、さらに演劇として観客に伝える総合的な演出術としての見せ方があまりなかったのが、もったいなかった。脚本が力作だけにねぇ。よくいっている(書いている)ことだが、最近は、脚本はおもしろいと思っても、それを演劇としてのおもしろさが伝わる舞台にしてくれていない作品が多い気がする。やはり、演出家のためのワークショップは必要なんだろうねぇ。まぁ、中地に関しては、これからも続けていくというし、しっかり応援しながら見守っていきたい。
作品の出来はともかく、この舞台には、中地と同期の卒業生たちが出演者の半数以上の7人も出ていて、さらに受付にも2人、客席にも2人いたので、さながら同窓会のような雰囲気で楽しかった。しかも、福岡校の卒業生全員と一緒に飲みに行った他の出演者の中には、代アニの他の学校の卒業生もいて、他校の先生の話など懐かしい話も出ていろいろ盛り上がった。東京に出て来て3年、みんなまだまだ20代で、これからさらに楽しみな連中だ。改めて他の卒業生たちも呼んで、みんなで集まって飲もうという話も出た。彼らとの付き合いもまた、私にも「頑張る」という気持ちを起こさせてくれる。ありがたいことだ。
9月の出来事で忘れられないのが、太田省吾さんのお別れ会だ。10日の月曜の夜、夜間クラスの授業の担当を変わってもらって、表参道のスパイラルホールへ向かった。お別れ会は6時からだったが、献花はその前にといわれ、5時半に行った。すでに昼間、お別れ会に参加出来ない人たちの献花が行われていて、太田さんの遺影の前には花がいっぱいだった。遺影が飾られている祭壇の美術は島次郎さんで、舞台監督は辻上彰二さん。照明も音楽も音響も、みな太田さんの舞台のようにシンプルで美しい世界を創り出している。特にモノクロの力強い遺影と、その周りに飾られた秋の野山の草花、そして、そこに微かに吹いている風が、彼岸から太田さんが「よく来てくれたねぇ」といっているようで、涙を誘う。知っている懐かしい顔にもいっぱい会ったが、最初はみな無言で会釈を交わしていた。やがて、司会者が登場し、大杉漣さんが挨拶をして献杯。大杉さんは「太田さんと会ったから俳優になった」といっていた。そして、立食を挟みながら、別役実さん、品川徹さん、山田せつ子さん、佐々木幹郎さんらのスピーチが続いた。別役さんの「一緒にやった近松戯曲賞の審査では、そこそこよく書けているエンタテインメント作品とやや稚拙だが実験的な作品では、彼は迷わず後者を支持した」という話と、佐々木さんの「創作をしていると太田さんの『まとめるな』『壊せ』という声が聞こえてくる」という話が、太田さんらしくて印象的だった。
その会場で、私が最初に会ったのは、故・岸田理生さんと一緒に演劇活動をやっていた宗方駿さんだ。彼と初めて会ったのはもう30年前になる。その頃の話を、彼は、岸田理生さんとの思い出を綴った「あの頃」というサイトにまとめていて、私との出会いも書いてある。彼は今は横浜に住んでいて、横浜を拠点に活動しているという。いつかまた、何か一緒にやることがありそうな気がした。
立食をしているうちにいろいろな人に会った。久しぶりに顔を見て懐かしかった人たちと次々に挨拶を交わした。龍昇さんもいた。月蝕歌劇団を観に行った後の飲み会で一緒だった榎本了壱さんもいた。やがて、『プラスチック・ローズ』をやった藤沢演劇プロジェクトのメンバーだった人たちや、月光舎にもよく出てくれた山本艶さんとも会い、いろんな話をした。会場内には太田さんが演出した舞台の写真がイーゼルに立てかけられて飾られていたのだが、その中に『プラスチック・ローズ』もあったので、みんなで喜び、その前で写真を撮った。そのうちの一人、遊園地再生事業団の舞台によく出ている南波典子さんは、チェルフィッチュの新国立劇場公演『エンジョイ』にも出ていた。オーディションに参加して出たそうだ。また、かまくら市民劇場の松本丸太さんは、月光舎の初期の頃に出てくれていて、太田さんの『砂の駅』にも出た鄭治子さん(彼女もかまくら市民劇場に所属していた)が亡くなった時の様子を教えてくれた。孤独死だったそうだ。やるせない。「天文館のあった場所でしのぶ会をやるので参加して欲しい」といわれた。私は鄭さんの月光舎での舞台写真を用意することを約束した。演劇評論家の西堂行人さんにも久しぶりに会って話をした。「寺山さんも岸田さんも太田さんも亡くなっちゃったなぁ」という西堂さんも、最近の芝居はおもしろくないといっていた。その原因ともいえるひとつの流れと、ある人物についても話していたが、意外だったので、「認めてたんじゃないですか?」と訊いたら、「いや、俺は全然認めてないよ」といっていた。まぁ、いわゆる“静かな演劇”という流れのことなんだけどね。他に、『授業』の公演の時には挨拶ぐらいしか出来なかった七字英輔さんにも会い、いろいろ話をした(前回の乾坤に書いた)。会の終わり頃、ソウルの仁川空港でバッタリ会ったこともある品川徹さんにも挨拶をした。「品川さんが出ている蜷川さんの舞台、観に行くんですよ」というと、「ぜひ楽屋に顔出してよ」といわれた。品川さんは、老いて(失礼!)ますます元気だ。これまた、私にまだまだ「頑張る」ことを呼び起こしてくれた。
お別れ会の後、2次会もあったようだが、私は出口で配られていた、遺影の周りに飾られていた秋の草花をいただいて失礼した。いろいろ懐かしい顔に会えたのも太田さんが引き合わせてくれたのだろうし、ここからもしかするとまた新しい何かが生まれるかもしれないと思った。前にも書いたが、いつか太田さんの作品もやってみたい。
というわけで、個人的なことはいろいろあったが、とりあえず、9月の主だったことはこれで終わり。なんだか9月は、懐かしモードと頑張らねばモードの月だったような気がする。しかし、9月の乾坤も結局2回しかまとめられなかった。どうも落ち着いてパソコンに向かっている時間がないのだ。10月もどうなるかわからない。いつでもどこでも原稿を書けるモバイルパソコンのようなものの購入も考えているのだけど、ちょっといい情報を聞いたので、それについてはいずれまた。早く発売されないかなぁ。
(2007.10.3)