さて、今週から神奈川発、〈よこはま・たそがれんど編〉ということで、装いも新たに始まることとなった“乾坤一滴”だが、福岡での韓国現代戯曲ドラマリーディング『豚とオートバイ』の総括(といえるかどうか、わからないが)を発表していなかったので、ちょっと長くなるが、先にそれを済ませてしまおう。
考えてみたら、この乾坤で、いろいろな公演に関わる話はしてきたと思うが、こういった形で上演した作品を総括するのは、初めてかもしれない。まぁ、今までは、自分のプロジェクトで、自分がやりたいようにやっていたのがほとんどだから、何をいおうと、上演した作品にすべてが現れている、わからない奴はわからなくたっていい、と思っていたりしたからだが、今回は、自分がプロデュースした公演ではないので、責任という意味でも、しっかり総括しておきたいと思う。
まず、このリーディング公演が、なぜ行われたかということ、つまり、公演をすることになった経緯については、ここでも書いてきたし、公演中のアフタートークでも話したので省くが、一番大事なことは、公演の出来云々ではなく、この公演を「やった」ということなのだということを最初にいっておきたい。もちろん、出来は関係ないといっているのではない。ただ、出来についての評価や感想は、それぞれあって当然なのだが、この公演を「やった」意義というものについては、その評価とは別に理解してほしいということなのだ。まぁ、演劇の公演を観る場合に、観客は、当然、自分が楽しめるかどうかということを基準に考えるだろうから、あまり、その公演の意義などというものについては気にしないかもしれないが、今回の公演は、私が福岡に滞在して3年間、福岡の演劇界を観て来て感じたことを反映させた部分が大なので(それはパンフにも書いた)、少しはそういった部分も気にして観てもらいたいということなのだ。いや、演劇を表現芸術のひとつとして考えた場合、作る側は、そこにメッセージを込めることは当然なので、観る側も、それを理解しようとすることは、当然、必要なことだと思う。それが伝わったか伝わらなかったかは別として。
では、なぜ、「やった」ことが大事なのかというと、いろいろな意味で、こういった公演は福岡ではあまり行われていない、ということなのだ。当然、表現芸術としての演劇を考えた場合、前衛であること、つまり、既成の価値観を壊し、新しいものを生み出していくことは大切なことだ。前衛というものの捉え方については、書き出すと長くなるので省くが、前衛だからといって、決して一般大衆が受け入れられないものではないということだけはいっておきたい。大切なのは、人と違うことをやるということ。芸術家やクリエーターにとっては、まずこういった意識を持つことが、必要かつ重要なことだろう。そこで、あまり行われていない、ということの重要性を理解していただきたい。
たった3年間ではあるが、福岡の演劇界を観て来た上での総括は、また別の機会に譲るとして、いろいろな公演を観て来て、「なぜ、その公演をやるのか」という、きちんとした制作意図を感じない公演が多かったように思う。つまり、単純にいえば、自分たちが好きなことをやりたいからやっている、というようにしか思えないような公演が多かったということだ。もちろん、高い意識を持って取り組んでいるカンパニーもいくつかあり、そういったところは乾坤でも評価してきた。そして、そういったカンパニーは、きちんと結果を出している。つまり、目的がしっかりしているから、そこに向かっていくことでクオリティも上がっていき、当然、周りからの評価も高まっていくのだ。だが、そういうことはおかまいなしに、アマチュア意識のまま、いつまでも変わらないことをやり続けているグループも多いように思う。これは福岡に限ったことだけじゃないかもしれないが。まぁ、福岡の演劇界についての話はこれぐらいにして、こういった公演があまり行われていない、ということはどういうことなのかを説明しておこう。
まず、リーディングというものがあまり行われていない、ということ。次に、いくつかの劇団の役者たちが出演する横断的なプロデュース公演があまり行われていないということ(他の劇団に客演として出たりすることはあるようだが)。そして何より、この作品が、福岡からは特に近い、お隣の国である韓国の演劇作品だということ。つまり、これまで、韓国の戯曲を取り扱った公演は、福岡の劇団では行っていないのではないか、ということだ。福岡で行われているアジア映画祭では、韓国映画はとても人気があるのに。さらに、いつもは観客の側である、演劇の制作としては素人の人間(薙野氏のこと)がプロデュースをして公演を行ったということ。その奮闘ぶりは、ぜひ、制作日誌を御覧いただきたい。付け加えるなら、福岡(厳密には九州出身)の人間でない演出家(私のことだが)によって、公演を行ったということもそうだ。これも、あまりないようだ。
これらのことを考えても、この公演の特殊性というものは明らかだし、この公演を行った意義というものも理解してもらえるのではないだろうか。それらについて、ひとつひとつ細かく説明していくと、またまた長くなりそうなので、御察しいただきたい。
ただ、そういったことは、やる側の思惑に過ぎないんじゃないか、という人もいるだろうから、実際の観客の反応も調べてみた。すると、アンケートを見る限り、やはり、こういったリーディングの公演というのは初めての体験だという人が多い。当然だろう。それは、福岡だから、ということではなく、全国的に見ても、リーディングと呼ばれる形態の公演が広く行われるようになってきたのは、ここ2、3年だからだ。そのやり方もいろいろあり、一概に、これがリーディング公演だと決められるものはない。読み手が椅子に座ったままの朗読会もリーディングだろうし、役者たちが動き回るリーディング公演もある。基本的には、役者たちが戯曲の台詞を覚えず、台本を持ちながら台詞を語っていくことで、その戯曲の世界を伝えていくというものだろう。そして、目の前に役者がいるということが大事なことだ。つまり、目をつぶって声や音だけを聞く、サウンドドラマやラジオドラマとも違い、また、かつてオキナワ月光舎でやった(演出は私ではない)、見えない芝居(観客に目隠しをさせて椅子に座らせ、効果音だけでなく、風を起こしたり、匂いも出して、実際に劇中のその場にいるように体感させる芝居。観客には見えなくとも、役者は台本は持たず、台詞は覚える)とも違う、ひとつの表現方法だ。照明の効果を考えたり、音楽を入れたりするものもあれば、地明かりだけで、音楽や効果音も一切入れないものもある。ト書きを読む場合もあるし、読まない場合もある。誰がト書きを読むかという違いもある。
そんな、リーディングは初めてという観客が多い中、やはり、大きく分けて二通りの反応があった。それは、いろいろな二通りの反応で、まず、新鮮だと感じた人とちょっと戸惑ったという人。つまり、未知なるものを受け入れられたか、受け入れられなかったかということ。そして、声だけを聞いていて、場面が想像出来たという人と想像が広がらなかったという人。もちろん、受け入れられたかどうかというのは、最初から先入観があって受け入れられなかったという人は論外として、いくつかの要因があるようだ。ひとつは、韓国の芝居なので、名前や地名がわからず、その世界に入り込めなかったというもの。それから、この作品が進行していく時間軸はいくつか変化するので、特に動きのないリーディングだと、それがわからなくて、入り込めなかったという人。しかし、この2点は、逆にいえば、この2点こそ、この作品の重要な、そして、おもしろい部分なわけだから、それを受け入れてもらえなかったとしたらどうしようもないので、そういう人には、自分がよく知っている世界の(日本を舞台にした)、単純でわかりやすい(時間軸がひとつだったりする)、作品を観て下さい、としかいいようがない。観客に、その作品の魅力を伝えるために、少しでもわかりやすくするという努力は、私なりにはしているつもりなので、それ以上のことは、その人の口には合わなかった、としかいいようがないのだ。これは、よくいっていることだが、100人の観客がいれば、100通りの反応があるわけだから、合う合わない(好き嫌い)というのは、あって当然なのだ。ただ、その自分の好き嫌いや合う合わないというのを、作品の価値判断基準としてしまうのはまずいし、そういう批評や感想は、その人の勉強不足を露呈しているだけだというのをわかってほしいと思う。もちろん、劇場での観客のアンケートは、どう書こうと自由だが。
そのアンケートの中で、最初に書いた、“「やった」ことが大事だ”ということにつながるのが、新鮮だと感じてくれた人が多かったということだ。そして、この“新鮮だと感じた”ということも、リーディングそのものと共に、初めて韓国の演劇に触れ、韓国の演劇に興味を持ってくれた人が多かったということもあり、それが、前述したように、この公演をやった意義のひとつにつながってくるのだ。
どうも、話がいろいろ広がって、まとめ難くなってしまったが、やはり、福岡でこういった公演をやったということを、次につなげてもらいたいというのが、私の切なる思いなのだ。次につなげる、というのはどういうことかというと、こういった公演があまり行われていないままにしないで、これからどんどんやっていってほしいということだ。
最後に、出来そのものに関していうと、まず、役者たちの部分に関しては、私個人としては、これまで他の芝居で観てきたり、最初の方の稽古で見てきた演技とは違う面を、最終的には見ることが出来たと思うので、満足している。特に、女優陣の、頑張りというか、変身ぶりには、驚くと同時に、とてもうれしかった。いや、男優陣ももちろん、良くなっていたが。私自身の演出がどうだというのは、自分ではうまくいえないが、今回の役者たちは、それぞれみんな、それまでの演劇経験が違うので、ひとりひとり違った対応をしてきた。そして、これはいつものことなのだが、技術的なことを細かく説明しながらも、最終的には、役者自身が自分で見つけ出し、納得する演技が出来るのを、本番ギリギリまで待っていた。それは信頼関係があったからだ。そして、彼らはしっかりそれに応えてくれた。だめな部分があったとしたら、それは演出の至らなさだと思う。確かに、もう少し徹底すればよかった、と思う点もいくつかあるのだ。ただ、それは、どんな公演をやっても思うことで、完全に満足したことなどないからこそ、演劇をやり続けているのだと思う。
役者以外の脚色や演出の部分に関しては、本番には来ることが出来なかった作者のイ・マニさんからも、翻訳の熊谷さんが公演の様子を細かく伝えてくれたところ(先週、役者のハンキンさんと共に、ソウルに行ってイ・マニさんに会ってきた)、ニコニコして満足してくれたようなので、自分なりに、よかったと思っている。細かいことをいえば、男、ファン・ジェギュを巡る二人の女(妻とパク・キョンスク)の描き方、特に、自殺した妻の本当の気持ちをどこかでしっかり表現したかったという部分。そして、チェ・バンドンの妻の方言の描き方と、最後の、台本にはないト書きを付け足した部分。もちろん、他の役についても、それぞれが背負っているものをしっかり表現したかったし、それもわかってもらえたようなので、満足している。とにかく、前にも書いたかもしれないが、ぜひ、リーディング公演でいいので、いつか、このメンバーで、東京での公演をやりたいと思っているのだ。誰かスポンサーになってくれないだろうか。その時には、今度こそ、イ・マニさんとしっかりアフタートークを行いたい。
まだまだ書き足りない部分はあるが、これですべて終わりというわけではないので、『豚とオートバイ』に関しては、折に触れ、いろいろ書いていきたいと思う。学院の仕事とは別の、私が福岡に3年間いたことの存在意義ともいえる、集大成的なイベントには違いないのだから。
というわけで、今週は、ほぼ『豚とオートバイ』のまとめだけにかなりの量を費やしてしまったが、神奈川での活動もぼちぼち始まっているので(毎日、関内に通っている)、来週、まとめて報告しよう。来週の月曜日には、代アニの関東圏の学校(東京・横浜・大宮・秋葉原)の合同入学式がある。東京での入学式に出るのは久しぶりだし、新しい三遊亭楽太郎学院長の挨拶も楽しみだ。
それともうひとつ、すでにお気づきの方もいると思うが、月光舎のサイトは閉鎖された。これは、ずっとホームページを作ってくれていた管理人の都合により行われたことなのだが、同時に、月光舎の活動自体をしばらく封印することにした。92年4月旗上げだから、今年の4月で丸14年だ。といっても、2002年9月の韓国凱旋公演以来、月光舎自体の公演はやっていないわけだから、実際の活動は10年で封印されたようなものだ。これは、いつ解くかわからない。つまり、月光舎の活動は、もうしばらくないというわけだ。ただし、かつての演劇舎螳螂や月光舎の過去の活動の記録は、別のサイトを立ち上げてまとめていくことになったので、近々発表する予定だ。といっても、例によって、少しずつだが。
ところで、〈よこはま・たそがれんど編〉というサブ・タイトルだが、どういう意味か、おわかりだろうか? やはり、「横浜」といえば、いしだあゆみの『ブルーライトヨコハマ』(NHKの『てるてる家族』で、いしだあゆみ役をやった上原多香子もカバーCDを出した)か、五木ひろしの『よこはま・たそがれ』(古っ! せめて横浜銀蝿、ってこれも古いか)で、カタカナの「ヨコハマ」より、ひらがなの「よこはま」の方が好きなので、そっちにして、それに、フレンドをブレンドして、「たそがれんど」にしたという、ただそれだけのことだ。造語、造語。まぁ、“夕暮れの薄暗くなってきた時間=黄昏時の、友達”とでも、解釈してくれればいい。黄昏時は、逢魔が刻でもあるわけだし。ところで、「黄昏=たそがれ」というのは、元々は「たそかれ」で、「誰(た)そ彼(かれ)」と、誰だか人の見分けがつきにくい時間のことを指したのだそうだ。だから、魔にも逢うわけだ。
乾坤一滴、〈よこはま・たそがれんど編〉、これからも、よろしく!
(2006.4.4)