2003年2月第4週

 先週は「広島ARROW」改め「Hiroshima.ARROW」略して「H.ARROW」通称「ハロー」のワークショップのために、今年2回目の広島訪問をしました。

 H.ARROWの方は、前回ちょっと厳しくやったこともあって(といっても基本的なことですが)、少しずつ進歩が見えるようになってはきましたが、身体の方はまだまだといった感じで、当分は基本的な声と身体作りが続くと思います。でも、参加希望者や見学者も増えてきて、みんなの意識も高まってきたようなので、先が楽しみです。興味のある方は連絡下さ〜い。まだまだ余裕はあります。

 しかし、広島にもいろんな劇団、それも若い人たちがやっている小劇場がいろいろあるんですね。今回、広島の代々木アニメーション学院を卒業して月光舎に入り、辞めた後、広島に戻って演劇活動を続けている子にも会ったんですが、その子の他にも広島から来て月光舎に入った同期の三人が三人とも同じ劇団で活動しているのを知り、なんかうれしかったですね。今回は公演が近くてみんなに会うことは出来ませんでしたが、いずれ会ってゆっくり話をしたいと思っています。現在、月光舎に所属している亀井隆之も広島出身で、広島とは何か演劇を通じた縁があるような気がします。というのも、私が初めて広島を訪れたのも、演劇に関することだったんです。

 今からもう27年前になりますね。当時、私は明治大学の劇団螺船というところに所属、というか新入生で旗揚げメンバーになりまして、第一回公演に別役実氏の『象』をやることになったんです。それまで映画ばかり作っていた私にとって、初めての本格的な演劇実体験が別役実氏の作品だったわけです。もちろん、それまでにも俳優座や文学座や四季の芝居を観たり、天井桟敷や状況劇場の活動を知ってはいましたが、小学校の学芸会以来の演劇体験が『象』でした。

 で、なぜ広島と関係があるのかというと、私の役は原爆病の患者の男を診る医者の役で、その役作りのために、わざわざ一人で広島に行ったわけです。ちなみに、この時の患者役の福士恵二は、その後、一緒に螺船を辞めて螳螂を作り、螳螂で天井桟敷の『奴婢訓』の手伝いをした後、寺山さんに引っ張られて天井桟敷に入りました。この時、実は私も誘われて、螳螂の主宰をしてたんで断ったんですけど、あの時、天井桟敷に入ってたら、私の人生も変わってたでしょうねぇ。

 初めての広島の印象は、決していいものではなかったですね。どこかにまだ原爆の放射能が残ってるんじゃないかと思うようなどんよりと曇った空と重い空気、そして、ここが仁義なき戦いの舞台なんだという思いが、私をひどく緊張させました。なんか吐き気を感じたのも覚えています。ま、今は駅前も繁華街もかなりきれいになって明るい雰囲気になってますけど、当時はまだ暗い雰囲気が残ってましたし、18歳でしたからねぇ、無理もないと思いますよ。

 市電に乗って、原爆ドームから平和記念公園に行き、まだ原爆の後遺症の残っている患者さんたちが入院している病院にも行きました。そして、『象』の患者のモデルになった「原爆一号」という方にも会うことが出来たんです。その方は、戦後、原爆ドームの前で店を開き、観光客に自分の身体のケロイドを見せて平和を訴えていたんですが、もう年なので隠居して家にいらっしゃいました。しかし、私が訪ねて行くと、身体のケロイドを見せてくれたんです。確か「別役先生にも会った」という話をしていたと思います。その方は、86年に74歳で亡くなりました。

 その初めての広島訪問の時、広島でお好み焼きや牡蛎を食べたかどうかは記憶にありません。それほど、原爆に関することの印象が強烈だったということでしょうね。

 いやぁ、広島っていうと、どうしてもこういう話になってしまうのはどうかとも思いますが、最初の印象があまりに強烈だったのと、やはり唯一の被爆国である日本の被爆都市としての位置は大きいと思いますね。全世界の人が平和公園の原爆資料館を見れば、この世から核なんてなくなると思うんですけどね。う〜ん、今回はまじめにまとまってしまいましたが、広島に関しては、もちろん楽しい話もいろいろあるので、それはおいおいと。

 そうそう、先週のなぞなぞの答え、わかった人もいるようですが、答えは「暗闇」でした。いやぁ、なぞなぞって、ただの記憶力頼りの常識問題より頭を使うし、その人のセンスがわかるからおもしろいですよね。意外に子供の方がわかったりすることもあるし。大人になると、頭が固くなるのかな。

(2003.3.4)
(つづく)


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