世間のゴールデン・ウィークも関係なく、って我々のような仕事やってると永遠に関係ないだろうけど、韓国公演『ウヌン タレ マウム』の稽古は続いています。
そんな中、5月4日は役者たちも衣装や小道具、髪形(脱色したり床屋に行ったり)等の準備をするために、一日休みを取りました。
久しぶりの休みで、昼間はちょうどゴールデン・ウィークで大阪から墓参りに来た弟夫婦と一歳半の姪っ子に会うことが出来ました。で、夜は中野でP.E.C.T.の公演鑑賞。P.E.C.T.は昔、遊◎機械/全自動シアターにいた中嶋浩(現・比呂嗣)氏が、12年前に月光舎と同じ片瀬江ノ島にあったアートスペース天文館で旗揚げした劇団です。月光舎を辞めた役者がP.E.C.T.に入ったり、中嶋氏にも月光舎に出てもらったり(初演の『眠れぬ夜のアリス』の女王様であり父親の役。怪演!)、そうそう、私も役者として出させてもらったりと、芝居の傾向は違うけどなんとなく交流しています。今回も月光舎からP.E.C.T.に演劇留学(本人の弁だけど、こういうのって劇団同士で期間を決めてやるのもいいんじゃないかなと思った)している佐藤誠(演劇界にも同姓同名が多いので、あなたの知ってる佐藤誠じゃないかもしれません)のお呼びがあって観に行きました。芝居の方は、ここ何年かのP.E.C.T.の傾向とはちょっと変わった感じがして、変な人がいっぱい出てくるので、割と好きでした。私は普通の人が出て来て普通のお芝居をするのは、どうも演劇を観ている気がしなくて、ダメなんですよ。そりゃ、いい芝居はいっぱいありますけどね。それはそれでそういうのが好きな人を相手にしてやっててくれればいいと思うので、私はあえて観に行きません。うちの芝居だって、普通の芝居が好きな人には別に観に来てもらわなくても構いませんから。ま、それはともかく、帰りは線路際の樽やで一緒に観に来ていた横浜演劇計画の連中と、あとから出演者の佐藤誠や山崎ルキノ、松本美香(ちょうど10年前、月光舎の旗揚げ公演に出てもらいました)も来て飲み明かし、いや、私は訳あって少し早めに帰りましたが。で、家に戻って、まだやらなくちゃいけないことが山ほどあるにもかかわらず、ビデオを観たんです。『田園に死す』。そう、5月4日は寺山修司氏の命日だったんですよ。
思えば今から19年前、演劇舎螳螂で『銀幕迷宮〜キネマ・ラビリンス〜』の初演の公演を高円寺の明石スタジオで上演していて、千秋楽が5月3日で翌日の5月4日は明石スタジオで片付けをしていました。その昼休み、明石スタジオの一階にあるロビーのテレビで『笑っていいとも!』を見ていると、なんとテロップに「寺山修司氏、死去」(詳しくは忘れましたが)の報が出たのです。寺山さんの病状が悪いのは前から知っていましたが、突然の訃報に驚くと共に、いくらタモリが寺山さんの物真似をしていたとはいえ、『笑っていいとも!』にそんなテロップが出るなんて、とても笑っていいとも状態じゃないじゃないかと憤慨したのを覚えています。
あれから19年。来年は没後20年になります。私も寺山さんが亡くなった年齢になりますが、この20年何をしてきたのかと思うと、反省しきりですね。没後10年の時には天文館(この名前も寺山さんの詩からとったものです)で没後10年祭のイベントを行い、月光舎では『書を捨てよ、町へ出よう』を上演しました。螳螂時代には『疫病流行記』を、プロデュース公演では『毛皮のマリー』と『血は立ったまま眠っている』を、今はなき渋谷のジァンジァンで上演しました。あ、『盲人書簡』も螳螂旗揚げの年に明治大学の551ホールと群馬大学のキャンパスでやりました。その翌年(1978年)の正月が天井桟敷の『奴婢訓』の初演で、手伝っていた螳螂の私と大鷹明良(当時は木村明)と福士恵二(その後、天井桟敷に入団)も大晦日まで稽古してましたっけ。オリャッってマッチを擦りながら。螳螂の人たちはうまいって寺山さんに褒められました。なんたって特訓しましたからね。
寺山さんとの出会いは、そのまま、私と演劇との本格的な出会いといっても過言ではないので、いずれ機会を改めて話しますね。来年の没後20年には、久しぶりに寺山作品をやりたいと思ってますし。
来週は韓国行き直前情報をお届けします。っていっても、今週は稽古だけだからなぁ……
(5.6.2002)
(つづく)