26日の土曜日の朝、劇作家で演出家の岸田理生さんが亡くなった。享年57歳。新聞などの発表では大腸ガンということだが、理生さんは長い間、原因不明のミトコンドリア病という病で体調を崩し、目も見えないような状態になっていたという。昨年10月にガンが発見されてから、東京医大に入院していたこともあったが、今年になって実家のある長野県の岡谷市で自宅療養をしていたという。残念ながら通夜にも告別式にも参加することは出来なかったが、東京で追悼の催しなどがあれば、何とか駆けつけたいと思う。
理生さんとの出会いは、もう26年も前になる。最初の出会いは、当時、理生さんが所属していた天井桟敷の公演の手伝いをした時だ。乾坤でも何回か書いているが、私が19歳の時に大学の同級生二人と共に組織した演劇舎螳螂で、翌年、寺山修司作品を上演したのをきっかけに、天井桟敷の『奴婢訓』初演の手伝いをした。正確には、明治大学の駿台演劇研究部・螺船で寺山作品を上演したことで寺山さんと知り合い、学生劇団ではない集団の結成を勧められ、螳螂を結成した後、また寺山作品を上演したのだ。
理生さんは天井桟敷の文芸部で、寺山さんと共に公演の台本を書いていた。寺山さんには「小松君」と呼ばれたが、理生さんにはなぜか初対面の時から「杏里」と呼ばれ、親しくしてもらった。家にも呼ばれ、麻雀もした。その麻雀の席で、「演劇界の平凡や明星みたいな雑誌を作りたいといっている人間がいるんだけど」と紹介されたのが高取英氏(現・月蝕歌劇団主宰)だった。高取さんとは、その後、漫画の編集の仕事で頻繁に会うようになり(当時、彼は『漫画エロジェニカ』の編集長で、私はけいせい出版という出版社で漫画の単行本の編集の仕事をしていた)、螳螂にも『聖ミカエラ学園漂流記』はじめ何作も書き下ろしてもらうという深い付き合いになった。
当時の理生さんは、天井桟敷に所属しながら、今はなき雑誌『奇想天外』にSF小説を発表したり、新書館で童話の翻訳をしたりと忙しい中(85年『糸地獄』での岸田戯曲賞受賞後は、映画やテレビの台本も書き出し、さらに忙しくなったのは周知の通り)、その後の岸田事務所+楽天団の前身ともいえる哥以劇場という劇団を、今は官能小説家・北原童夢として活躍している樋口隆之氏や、男優の宗方駿氏らと組織していた。そして、麻布十番の天井桟敷館で行われた第二回公演『解体新書』を螳螂が手伝い、冬雁子と大鷹明良が出演し、私も照明を担当した。1978年のことだ。そしてさらに、新宿のライヒ館モレノで行われた哥以劇場第三回公演『捨子物語』には、私も役者として出演したのだ。一人で何役かやったうちのひとつが独楽回しの役で、私は稽古場で「独楽が二つで独楽ツー」などというダジャレをいい、その後はお呼びがかからなくなった……というのは冗談だが、確か本番でもそのダジャレはいわせてもらったような記憶はある。その後、哥以劇場は岸田事務所になり、やがて岸田事務所+楽天団に変わっていった。
最近、といってもここ10年ぐらいだが、理生さんと直接関わる機会は減ったが、理生さんのところに所属していた役者たちとは会う機会も多く、理生さんともタイニイアリスや太田省吾さんが芸術監督をしていた湘南台の市民センターで会ったりすることもあった。しかし、理生さんが病に伏してからは、「最近、身体の調子が悪いので」という話を聞くばかりで、会う機会もなくなり、今年、寺山さんの没後20年ということもあり、元気な復活を望んでいた中での訃報だった。
理生さんは韓国との交流も深く、月光舎の韓国公演の時にも理生さんの話題も上がり、一度タイニイアリスで韓国の話をしたこともあったが、これからもっと韓国やアジアの話を理生さんに聞きたいと思っていた。一人の個性的な劇作家・演出家を失ったということだけでなく、アジアとの演劇交流においても、大切な人を亡くしたという思いが強い。ほんとにもっといろいろな話をしたかったと悔やまれてならない。
御冥福を祈ります。
※今回は、理生さん追悼のため、当初の原稿を差し替え、写真もありません。それについては、また次回触れます。
(2003.7.1)